アンドレ・モロワ『ジョルジュ・サンド』河盛好蔵、縦横に資料を駆使している。

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 ジョルジュ・サンドは日本の題名で『愛の妖精』La pettiet
Fadetteで誠に日本の読者にも親しまれている。実際、私は
これを講談社「少年少女世界文学全集・フランス編2」であっ
たが、まさに一気に読めた。粗野な野生児の少女が見事に洗練
されていく、いい小説だった。・・・・・・そのジョルジュ・
サンド、フランス語でも読んでいる。読むなら英語よりフラン
ス語だ。

 さて、1804年、パリに生まれたジョルジュ・サンド、本名は
オーロール・デュパンはまことに波乱に富んだ人生が待ち受け
ていた、のである。このモロワの著書でよると、どんな家系で
も、二人や三人はえらく変わり者がいる、ものだというが、彼
女の場合はその先祖がみな非凡だったというのだから。

 「王が修道尼と、偉大な軍人が踊り子と混ざり合っている。
女という女は、お伽噺の中のようにオーロールと呼ばれ、その
女達は息子や恋人を持ち、私生児はアラレが降るように生まれ、
認知され、褒め称えられ、堂々と育てられる。この家族の年代
記は艶笑物語や叙事詩、千一夜物語まで含んでいる」

 少女時代に軍人で戦争の合間だけに領地に帰ってきて抱擁し
てくれる父親に死なれてから、、オーロールは母を愛するあま
り、父に代わって男のような行状を身につけたという。母は
パリで、オーロールは祖母とノアンの領地で暮らしたが、12歳
のころ、しばらくパリの修道院にいれらた、という。17歳のと
きに、ノアンの相続人として男のズボンを履き、帽子を被り、
肩に銃をかけて畑を大股に歩き、一家を切り回したという。(
オーロールとはジョルジュ・サンドのことである)

 1821年に祖母が亡くなり、ここで「どんな男性でも守ること
の出来ない女性の世界の困難な位置を考えて悲しくなった」と
いう。オーロールはカジミール・デュ・ドゥヴァンと結婚した。

 二人の間にモーリスという息子とソランジュという娘が生ま
れたが、結婚生活は幸福なものでなかった、という。1830年、
19歳のジュール・サンドオという青年と知り合い、夫、子供を
捨てて出奔した。二人はパリで『バラ色と白』という長編小説
を書き、J・サンドという名前で刊行した。

 オーロールの『アンディアナ』が完成したとき、サンドオは
それを激賞した。自分の名前は出すのを遠慮したので、彼女は
ジョルジュ・サンドというペンネームを用い、終生この名前で
執筆活動を行った。

 ところで世に有名なショパン、ポーランドのピアニストとの
恋は1837年に始まって、それはいかなる障害をも乗り越える、と
いう状態だった。サンドの情熱的な愛情と献身的な看護、ショパ
ンの生活に、その活動に大きな寄与を行った。が、それも長くは
続かず。

 ショパンはサンドの愛情を独占しなければ収まらず、すでに
成人していたサンドの息子、モーリスの母への愛情やさらに娘
のソランジュが邪魔となっていった。病弱なショパンのために
「全く処女のように暮らしてきた」(その意味するところはよ
くわからないが)というサンドをショパンは捨て去り、サンド
は「八年間も母のように献身してきたのに」と歎いたという。

 ところが、このあたりからサンドの恋愛遍歴は新たな方向性
をもっていった。「人生は長い痛手です。ほとんど眠らず、ま
た治ることもない。私の心は悲しくて重い。でも愛されるに
値する人を私はもっと愛する」という言葉もある。

 1848年の二月革命にもサンドは身を投じた。その情熱は1876
年、72歳でこの世を去るまで続いた、という。

 実はモロワの書いた多くの評伝でも、このジョルジュ・サンド
についてのものは、新たな分野を開拓した、あらゆる資料を縦横
に駆使し、真実の探求に邁進している。

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