アンドレ・ジッド『死を前にして』1953,「日記」の最終章のようなもの
以前は「アンドレ・ジード」だったが現在はフランス語の
発音に即して「アンドレ・ジッド」である。Andre Gideだから
「ジッド」が正しいのはわかるが、正直、「ジード」で感じて
いた重厚さ?がやや希薄に感じる部分はある。
1953年、昭和28年に翻訳が新潮社から刊行された。ジッド
は1951年に亡くなっている。ももとジッドの『日記』はそれ
以前から日本訳が刊行、完結されていた。また死後、初めて
公表された『秘められた日記』は妻との関係を明らかにして
いて話題を巻いた。で、この『死を前にして』はジッド最後
の手記である。内容は生臭くなくて、淡々とした思い出の記
述、それと老境と死である。
ジッドは、格別の気取りやポーズ、自己満足は忌み嫌って
いたから、とにかく生涯「誠実」を貫いた。実は「誠実」こ
そがジッドのポーズだったと思える。
ジッドが云うには
「今ここに書いていたことを、もし、これを読んでくれる
青年にとって、もし熱意の挫折、あるいは弛緩を促すとした
ら、私はすぐにでもこれらの頁を破り捨ててしまうだろう。
だが、私の年齢を考えていただきたい。そして80歳にもなっ
て、まだ飛び跳ねなければならないのは、憤慨したときでも
なければ出来ないということをご理解ねがいたい」
さらに
「私は感じている、というより、むしろ知っている。もう
そう長くは生きられないことを。私は一日中絶えず、自分に
それを言い聞かせている。・・・・・静かにあやかも眠るが
如くに死にたい。それが可能だろうか。とりわけ、全然、芝
居がかったところのない死に方をしたい。予告もなく準備も
出来ていない死い方を」
というのだが、容易も準備も出来ていない死に方とは、も
う文学の巨星として為すべきをなして、、いいたいことは全
て言った、という人間の安らかさだろうか。しかも結果的に
死の6日前に書かれた最後の一節、切迫感がある。
「ああ、この手記の終わりとともに全てが閉じられ、全て
が終わるとは断言できない。多分、まだ何かを書き加えたい
という気持ちは捨てられないだろう。何かしら、つけ加える
であろう。おそらく、最後の瞬間に、なお何かを書き加える
であろう。・・・・・眠い。本当に。だが眠りたいとは思え
ない。余計疲れるから分からないような気がする。今は夜の
何時だろうか。朝の何時か、私は知らない。なお云うべきこ
とがあるだろうか。それは何かは分からない。
天上における私自身の位置から太陽を眺めても、曙光がこ
れまでより美しくない、というはずはあるまい」
やはり最後まで自己分析である。
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