『蟹工船』小林多喜二への疑問、なぜか有効な闘争手段のサボタージュが雲散霧消し、知らぬ間にストライキという作品上の失敗

この疑問は畑中康雄氏の文章に触発されたものだ。云うまで
もなく『蟹工船』は小林多喜二の代表作である。別に自分自身
が蟹工船に乗り込んで働いた経験もないのに、綿密な調査と聞
き書きで仕上げた、確かに傑作だろう。その文章表現は見事で
ある。やはり小林多喜二は天才である、・・・・・わけだが、
やはり作品を仕上げるための奇妙な虚構がある、わけである。
文学作品だから仕方がないわけだが。
ところで多喜二が『蟹工船』を書く動機となった実際の事件、
林兼商店が買い上げて蟹工船に改造した貨客船、博愛丸事件で
ある。多喜二が「蟹工船」を発表したのは1929年、昭和4年だ
が作品の効果もなく、というべきか、博愛丸をはるかに超える
残虐事件、「エトロフ丸」事件が翌年、1930年、昭和5年に「
北海タイムス社」によって報じられた。「蟹工船」に描かれて
いる労働者への虐待ぶりが甘すぎた、という批判があるのは事
実だ。エトロフ丸は漁夫や雑役夫、学生たちに暴力を振るうの
一人や二人ではない、缶詰検査員までもが雑役頭を殴り殺して
いた。
『蟹工船』で暴力をふるい続けていた浅川、さらに雑夫長だ
けという少なさである。浅川のような男がただ棍棒だけを片手
に威張っているだけ、は考えられないだろう。手下の部下に、
手なづけた漁夫にスパイをやらせたり、また密告を奨励してい
て当然だろう。何か起きたら手下と手なづけた漁夫を使って、
何人かの漁夫たちに暴力を振るうのは当然起こり得るはずだ。
『蟹工船』では「ただイライラ歩き回ることしか出来なかった
」というから、甘すぎると云うしかない。
蟹工船ないでサボタージュが発生、だが400人もの争議行為
に未経験な漁夫たちが心を一つにしてサボタージュというには
ただイライラ歩き回ることしか出来なかった。漁夫たちもそ
ういう監督を見るのは初めてだった。上甲板では網から外した
蟹が無数に、がさがさ歩く音がした。・・・しかし監督の棒も
何の役にも立たない。「昨日、ウンと働きすぎたから今日はサ
ボだど」と仕事の出しなに皆そう言うと、皆そうなった。
これが漁夫が中心になって起こしたサボタージュの全てなの
だ。実際、漁夫らの集会もなくなぜサボタージュが出来たのや
ら、ここは雑だ。
サボタージュを監督もどうにも出来ない。貼り紙を行った。
仕事を少しでも怠けたと見るときには大焼きを入れる。
組をなして怠けたものにはカムサツカ体操をさせる。
罰として賃銀棒引き、
函館へ帰ったら、警察に引き渡す。
いやしくも監督に対し、少しの反抗を示すときは銃殺されるものと思うべし。
浅川監督
雑夫長
だがこの貼り紙も効果はなし。一日おきのサボタージュを
やって「足並みが揃って」きて漁夫たちの勝利だ。
だがここで作品は飛躍がある。その貼り紙の記述のわずかの
後の部分、サボタージュは雲散霧消している。
学生の作った組織も反古のように、役に立たなかった。――それでも学生は割合に元気を保っていた。
「何かあったら跳ね起きるんだ。その代り、その何かをうまくつかむことだ」と云った。
「これでも跳ね起きられるかな」――威張んなの漁夫だった。
「かな――? 馬鹿。こっちは人数が多いんだ。恐れることはないさ。それに彼奴等が無茶なことをすればする程、今のうちこそ内へ、内へとこもっているが、火薬よりも強い不平と不満が皆の心の中に、つまりにいいだけつまっているんだ。――俺はそいつを頼りにしているんだ」
「道具立てはいいな」威張んなは「糞壺」の中をグルグル見廻して、
「そんな奴等がいるかな。どれも、これも…………」
愚痴ッぽく云った。
「俺達から愚痴ッぽかったら――もう、最後だよ」
「見れ、お前えだけだ、元気のええのア。――今度事件起こしてみれ、生命がけだ」
学生は暗い顔をした。「そうさ……」と云った。
監督は手下を連れて、夜三回まわってきた。三、四人固まっていると、怒鳴りつけた。それでも、まだ足りなく、秘密に自分の手下を「糞壺」に寝らせた。
「一日おきのサボタージュ」のはずが、・・・・唖然な記述
である。つまり、多喜二は作品のクライマックスにどうしても
「ストライキ」を出したかったのだ。現実にサボタージュこそ
最高の戦術、であるという認識を多喜二は欠いていたわけであ
る。
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