究極小説としての『悪霊』ドストエフスキーへの導入の体験、Stavroginへの憧れの始まり

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 私が初めてドストエフスキーの『悪霊』を知ったのは、中学
生の頃、旺文社文庫で『罪と罰』を読んだときのこと、とにも
かくにも読み終えて解説を読んで、解説は翻訳者の江川卓氏、
さらに「主要作品解題」これが振るっていた。『悪霊』の解題
である。
 
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 聖書に伝えられるキリストの奇蹟の一つに、イエスによって
体内から追い出された悪霊が豚の群に乗り移り、その豚が湖に
飛び込んで死ぬ、という記述がある。この長編(悪霊)は、当時
のロシアに広まっていたニヒリズムのの思想をこの悪霊になぞ
らえて、それに憑かれた革命家たちの群像を描こうとしたもの
である。作者(ドストエフスキー)がシベリア流刑以前に加わっ
ていた革命的政治サークルの内情が、そこから転向した者の目
から批判的に、ときに誹謗的に描かれている。・・・・・

 この長編はネチャーエフ事件という実在の出来事にヒントを
得て書かれた。これは学生運動の秘密政治結社の指導者であっ
たネチャーエフが、結社の一員が転向を表明すると、警察への
密告を怖れて仲間とともに彼を惨殺した事件である。(ドストエ
フスキーの妻の弟が被害者と友人関係であった)『悪霊』ではネ
チャーエフにピョートル・ヴェルホヴェンスキーに、シャート
フがリンチを受け、殺害されるメンバーとなっている。

 しかし、この小説は単なる政治的、傾向的小説にとどまらず、
それを超えたドストエフスキー的な作品となり得た。確かにピョ
ートルは戯画化された革命家として描かれているが、作品での比
重は彼にではなく、新たにドストエフスキーが創造した人間、ニ
コライ・スタブローギン、Stavroginに置かれている。彼は一切の
精神的規範、社会的規範を超越し、そのために滅びなければなら
ない人間の知性を象徴する存在であり、『罪と罰』のスビドリガ
イロフをさらに深めたところに位置する。『悪霊』はまた、この
スタヴローギンの思想を受け継ぎ、「死に対する苦痛と恐怖を克
服したものは自ら神となる」という人神思想を説き、その実践の
ため自殺するキリーロフのような人物もでてくる。

 おそらく、最もドストエフスキー的な作品といえば、・・・・・
この『悪霊』をおいてほかにあるまい。

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 この解題にまず触れて私は悪霊を読み始めた。今に至る探求の
道であるが、はかどっていない。
 

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