出身校、出身大学に愛着がわかない。大学の地もキャンパスも訪れたくない心理

出身校、まあ公立義務教育、学区制の高校は一種の論外だ
が、あの当時、私立中高一貫は田舎では稀だった。ないわけ
ではなかったが。近所でも金光学園中学に行ったのはある、
商人の息子、5人兄弟で実に4人も、最後は落ちたらしい。
さらに内科医、歯科医の息子、超近所でもないが近所だった。
正直、公立中学はうまく立ち回れない者は行くべき場所では
ない。完全な地獄になり得る。家内は金光学園中、高である
。聞けば中3で全員、高校の数Ⅰ終了というくらいで受験に
は絶対有利だったと思う。でも、私立中高一貫が超希少だっ
た田舎では与えられた運命のように公立小学校から高校まで
進んだものだ。二十歳までに人生の苦渋のほぼ全てがあった、
のが私である。
さて、大学。よく卒業生で懐かしいと言って母校を訪れる
者がいる。大学はあえて論じることもないし、小中学で「
懐かしい」といって訪問する卒業生もめったにいないだろう。
私は見たことはない。実は公立高校で何回も「懐かしい」と
いって訪問してくる卒業生がいるのを見たことがある。ある
体育教師、実にイヤーな男で虫酸が走るくらいだが、もの好
きというのか、「懐かしい」といって訪問する卒業生が何人
もいたのである。私のように卒後1年で受け取りに行ったら、
卒業証書、卒業アルバムも、にべもなく「ない」ただし代理
人であった。黙って帰ってきた。以後、卒業証書をめぐって
長い戦いが始まった、まあ、37年ぶりに高校の卒業証書と対
面、1日だけ保管、焼却処分した。筒だけが残っていて記念品
である。アルバムは同期のを借りてコピー製本させてもらっ
た。でも誰が私の支払済みのアルバムをゲットしたのだろう
か。
だが大学である。高校以下は論じる必要はない。卒業した
大学、その地は懐かしい?もちろん東京の大学を出て東京を
どうこう言って「二度と東京を訪れない」などといえば滑稽
な話であり、そんな話はないと思う。そりゃ、苦渋な体験は
誰しも多かれ少なかれ、どの場所の大学を出てもあるとは思
うが。その地より、キャンパスはもう訪れない、と考えるな
ら、やはり不幸な大学生活だった、ということだろう。
私は卒業した大学は神戸大学、広島大学だがともに全然、
愛着がない。一流大学でない、という理由もあるがその地
がまたキライで広島など基本、訪れることはない。可能なら
二度と行きたくない、たまに同窓会なら行くことはあった、
がもう同窓会もないし、訪れる可能性はゼロに近い。街がそ
もそもキラいでたまらない。なら、神戸?やはり本音でキラ
いでなるたけ訪れない、さりとて広島ほど毛嫌いも出来ない
、娘が幸福な大学生活を神戸で送ってしばしば訪れるから、
である。
兄はもと東京高等師範の東京教育大、といえば戦後は戦前
の高等師範ほどの名門性は持ち得なかったが筑波大学、総合
大学になって評価は高くなった。兄は東京に行ってからも
地元出身の「名士」を訪れ、交際もあり、幸福な大学生活で
あったと思う。田舎で大黒屋という元酒屋、豆腐屋があった
がその家から出た石山という体育系の大学教授とか、笠岡
市の関戸?の寺院だろう、国立大の事務室を事務長で渡り
あるく小野真海なる人物をしばしば訪れていたようで、なに
かといえば「小野真海」という名前を聞かされた。地元の
寺院はもう廃寺になったのではないだろうか。
私の大学時代、バイト仲間とは友人になれたが、学内に友
人はできなかった。まして地元出身の名士?を訪れるなどと
いうことも皆無で、実に孤独、菊池寛の京都大学選科学生時
代を遥かに下回る孤独さだった。したがって広島、神戸に
は何一ついい思い出がない。当然、、大学に愛着もなく、ま
して誇りなど持てない。キャンバスを訪問することもまず永
遠にない。・・・・・否定の論理ばかりのようだが、それは
感じたままであり、どうしようもない。神戸大でもノーベル
賞をもらった者はいるが、遺伝子ワクチンの官製のキャンペ
ーンの広告塔になるなど、目を背けたくなる。「やっぱり」
という思いだ。
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