渡辺順三『烈風の中を』1972、プロレタリア歌人の自叙伝、戦後、共産党に完全追随への自省がない

渡辺順三、1894~1972,プロレタリア文学を語る際に、歌人
、渡辺順三は極めて重要な存在である。『烈風の中ヲ』は1972
年刊行、実は終戦までの自伝は相当以前、発表されていたとい
うが、それを1960年安保の年まで書き加え、終戦までの部分も
あらためて書き直されているという。
文学史の観点からは、昭和4年、1929年のプロレタリア歌人
同名の結成、ナップへの加入が一つの頂点とはなる。だが治安
維持法体制の弾圧で大日本歌人協会はその「自由主義的」傾向
を理由として解散させられた。渡辺順三自身、何度も投獄の憂
きめにあったこと、確かに嵐の中の生涯は見後に描かれている。
ユーモラスだった小林多喜二や「お前の名前を覚えておくぞ」
と公開の席でく脅す右翼歌人の実態も的確に述べられている。
だがそれ以前の人生、武家の出だったが維新後、没落し、父
親は小学校校長になったが狂死、父の死後、母とともに富山から
上京、順三は神田の家具店に住み込みの小僧に、母親は女中奉公
を。順三はまた流行性髄膜炎に罹患したり狂人に頭を殴られるな
ど、何度も死地をさまよった。
本書はそれまで発表していた戦前の部分に戦後を書き加えたも
のだ。戦後、1950年、昭和25年夏、順三はあらためて警察から
呼び出しを受ける。出頭した歌人に、当時の共産党の暴発、火炎
瓶闘争で潜航した幹部の所在について厳しく取り調べを受けた。
戦時下の特高の復活のようだった。かっての特高と同じ口調で
問いつむる語気 するどくけわし
背後の力をかさにきて押しまくるから
ぎらつくまなこ 避けてはならず
とにかく歌人としての長年のキャリアは長い。一貫して庶民の
魂を失うことはなかった。また中河与一、鹿地亘の人物像を明確
に描いている。
ただ戦後はあまりに共産党一途でありすぎ、非常に公式主義的
になった、歌の内容も、だがそれらの問題には自らふれていない。
これは欠陥といえばそのとおりだろうが、一貫した庶民派の歌人
としては筋を通した、ということだろうか。この点は何かしっくり
しない。
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