無能が悪いのではない、無能に徹さないことが悪いのである。死中に活とは無能に徹することだ


 このタイトルのフレーズだが、島崎藤村の「弱者であること
が悪いのではなく、弱者に徹さないことが悪いのである」の顰
に(ひそみに)倣ったものである。

 人は有能になることを強いられて幼いときから有能は絶対善
で無能は無価値、と叩き込まれる。教育課程がそのものである
、というより社会全体が有能礼賛、優遇で無能はその真逆、もう
社会的役割からも排除され、疎外である。正規の所属が与えられ
ない。この世が自信喪失の衆愚を叩き込む悪所とするなら、実際
、無能であることは社会に有用ではない、社会のために利用され
ることもない。他人に利用されず、社会の道具となることもない、
言い換えれば他人、社会に無用、自分、自分の精神、内面に有用
という最も至高の価値を生む、一度の人生、なまじ有能で社会に
利用されてはならない、真の自分にのみ有用な人生、あの荘子に
おける「真人」の境地と云って差し支えない。

 とまあ、「荘子」の思想に従ったまで、と言いたいが、現実は
誰しも厳しい。有能競争、有能礼賛に疲れ果てる人生というしか
ないが、誰しも実際、無能の烙印を押される可能性がある。そこ
で限りなく有能を目指して疲労困憊となる。生存競争がこの世の
逃れがたいしきたりなら、限りなく有能を目指すほどの努力を行
なわないと人並みの生存競争突破力も獲得できないわけである。
その過は失意落胆と希望の死屍累々である。

 そこで死中に活、というなら無能は半端な無能であってはなら
ず、無能に徹するということ、無能に徹してこそ死中に活が求め
れる。この真理がわかるためには、まともな人生をいきたのでは
そもそも不可能である。世間一般に無価値と思いがちな中に、実
は真実が潜んでいる、ただその会得にはやはり長い年月がかかる
ものだ。

 

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