『海野十三 敗戦日記』中公文庫など、実に貴重な敗戦日記、興味津々の多くの事実、生活感情がわかる

多分最初、刊行されたのは1971年、講談社からだと思うが
、今は中公文庫、さらにそのKindle、またKindle Unlimitedも
現在サービスされている。私はUnlimitedで読んだが貴重な
事実、生活感情がわかって面白く、有意義だった。ただし
海野十三全集もUnlimitedであるから、日記も全集収録であ
り、どうせいならそちらがいい。
「敗戦日記」を作家が書いたものは多々?ありそうな気が
する。風変わりなものは永井荷風もあるし、また高見順のも
も有名だ。山田風太郎『戦中派不戦日記』はユニーク、もち
ろん風太郎は敗戦時、まだ23歳の医学生だった。海野十三は
1897年、徳島生まれ、早稲田理工系卒で科学的!な推理探偵、
空想小説で著名で敗戦時は48歳であった。空襲日記の1,2
と降伏日記の1,2とさらに海野十三遺書からなる。
まずわきまえておくことは、戦前、戦時下、日本国民は徹
底した「神国不敗」を叩き込まれ、圧倒的多数がそれを信じ
ていたことだ。「どうせ負ける」と考えていた者はごくごく
一部、「日本は負けていても最後は神風が吹いて勝つ」と、
まじ考えてた人が圧倒的だった。「実は負けを内心、予感し
ていたひともかなりいた」は比率から云えば全くの誤りであ
る。海野十三も例外ではなかった。ただ科学者でもあり、広
島への原爆投下、ソ連軍怒涛の満州侵攻を聞いて「ソ連も遠
からず原爆を作る」と予想しているのはさすがだろうか。
空襲日記は昭和19年12月7日より昭和20年5月2日まで、降
伏日記は昭和20年5月3日から年末までである。
粗末なざら紙を閉じただけの二冊のノートがそれであった。
海野十三は昭和24年、終戦まもなく亡くなってその日記も長
く発表されず放置状態だった。
内容は半ば箇条書き的、日記だからそうなるの自然だが、
ごく手短に書かれている日と、結構長く読み応えんのある日も
ある。昭和19年末から始まっており、次第に空襲が激しくなる
様子がよくわかるし、当時の日本人の思い込みや、また興味深
い挿話もかなりある。東京が焦土となる過程もよくわかるし、
また日本各地に結構、出かけていてその様子も書かれていて興
味深い。8月15日の終戦、それから日本も立ち直る様子をメモ
風に書いている。その間の庶民の生活、食糧事情の超悪さ、近
親者、友人の暮らしぶりがかなり詳しく描かれ、実に興味深い。
食料、商品の価格がよくわかり、貴重な歴史資料ともなってい
る。
そもそも海野十三はその前「くろがね」という海軍に関わる
文士徴用の組織の世話人を務めていて、海軍報道班員としてラ
バウルに赴いたこともある。そこで海野十三は日本軍の非科学
的な考え、軍人の唾棄すべき偏狭な考え方に怒り心頭となった
り、それがやがて敗戦となり、戦争遂行にあまりに協力的すぎ
たと反省し、国家と運命をともにするため一家心中を思いつく
くだりは心を打つ。
8月13日:朝、英(夫人のこと)と相談する。私はいろいろな
場合を説明し、その手段を話した。その結果、やはり死ぬと
決定した。・・・・・・
その前日は、・・・:自分一人死ぬのはやさしい。最愛の
家族を道連れにし、それを先に片付けてから死ぬというのは
容易ならぬことだ。
だが結局、一家心中はなされなかったのは幸い。海野十三
は戦後、丘丘三郎、おかきゅうざぶろう、のペンネームを用い
たのは敗戦の挫折感が非常に大きかった、ことだろうか。戦
争自体への批判的記述は見いだせない。
敗戦を岡山県吉備郡岡田村、疎開地で聞いた横溝正史が「
よし、これからだ」と勇み立ったのとは対照的ではある。
時代を読み取っていた作家、とは海野十三は異なり、一般庶
民と同じレベルで戦争を受け止め、必勝を信じていたという
ことで、それゆえにショックも大きかったようだ。だが実に
貴重な内容である。「青空文庫」には日記はない。
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