相馬黒光「防須正秀戦死おぼえがき」(『摩文仁の石』【私家版】より)第一回
『摩文仁の石』より、この本は一般に出版されたもの
ではなく、私家版であり、入手は極めて困難であり、今
後はまず不可能に近いと思われる。
宮崎県日向市の彫刻家、村山金吾氏に相馬黒光さんから
贈呈されたという署名
〈はじめに〉 相馬黒光
先ごろ、先輩諸名家及び友人諸氏の御協力によりまして、
かねて宿題のラス・ビハリ・ボース伝記を編纂し、「アジ
アのめざめ」と題して出版いたしましたところ、多数の読
者から色々の御注意と声援を寄せられ、近親者一同深く感
謝致しました。
さて、御注意のうちに、ボースのあとはどうなっている
のか、唯一人の男子の正秀が沖縄戦で生死不明であり、そ
の後戦死の公報があったというが、もし詳しい事が判明し
たのであれば、それもこの巻末に収めるべきとのお声に接
し、まことに感慨無量、熟考の末、この別冊「正秀戦死お
ぼえがき」をつくることと致しました。
ボース家のあとについては、相馬一族悉くみな戦火を受
け、離散の状態にありましたことゝて、未だ充分の報告を
致すことが出来ませんことを、偏えに読者の御賢察を願う
次第であります。
昭和28年6月
相馬黒光
(一) 三年目の戦死確認
最近、中共からの帰還者を迎えに行った船が相次いで舞鶴
港に入港し、異境に流離の旅を閉じて、ようやく祖国に帰る
ことの出来た人々と、報せを聞いて遠くから駆けつけた親子
兄弟夫婦が、埠頭において、相抱いて喜びの涙を流す再会の
情景は、そのまま録音されて伝わり、ラジオの前に目を閉じ
耳を傾けて、私共はこれを聴くのです。
けれども自分の待つ者が帰って来ない。生死のほども不明
である。或はもう永遠に帰らないことを知らされているが、
いつどこでどんな死に方をしたのやら、知るよしもなく、万
枡の涙を呑んで、まことに遺家族の心のうちは闇であります。
私も確かにその一人です。
沖縄守備軍の玉砕が伝えられて以来、部隊本部付きであっ
た正秀の戦死はもはや確実とは思っていても、長いこと公報
もなく生死不明でおかれていた間は、朝夕仏壇に向かいなが
らも、正念に掌を合わすことは出来ませんでした。
正秀の戦死が公報をもって確認されたのは、沖縄戦終了か
ら二年数ヶ月後の昭和22年10月始めでした。いまその日記を
見ますと
10月2日
大悲願寺住職入来、主人の病気見舞いをかね、正秀の遺骨
(霊)が芝増上寺に届いているという通知が、五日市増戸村役場
にきたのである。正秀の遺骨ではなく御霊とあるが、何を届
けられたのであろう。覚悟はしていたが今更の如く感無量で
ある。近い内、家族と相談の上、内輪の葬式を営ねばならぬ。
・・・・・・
昭和27年刊行「晩霜」大沢日記の内
まことは御霊ろして手渡されたものは遺骨ではなく、戦死の
日時も場所も正確なものではないことは云うまでもありません
これでは公報によってますます、迷いを深めるのみでした。と
ころがここで仏のお引き合わせと思うようなことがあり、生還
された正秀の戦友の方から、現地でのいろいろなこと、戦死前
の模様など、その一端を知らされました。
(二)
それは一昨年、昭和26年9月中旬のこと、私共の中村屋が戦災
と戦後の混乱からようやく立ち直り、再起してから三年目、まだ
現在の設備の何分の一にも至っていなかった時分のことでありま
す。或日「今日、この手紙が店宛にまいりましたので開封いたし
ましたが」といって、中村屋に一通の手紙が届けられました。な
るほど、表書きには東京都新宿区新宿駅付近中村屋御中とありま
した。裏には北海道十勝国上川郡新得町字新屈足、名は田中義徳
とあり、私共には全く未知のお方でした。どういう御用なのかと
拝見すると、次のような文章で、私はここにはからずも正秀の戦
友の方からのお手紙をいただいたわけです。
お手紙
拝啓、初秋の候と相成りましたが、御店益々御清栄の御事と
拝察致します。さて、突然のことにて後不審とは存じますが、御
伺い致し度き事情がございまして、失礼も顧みずこの書相認めま
す。
実は私は、御令孫防須正秀様とは、沖縄本島勤務及び戦闘中、
防須少尉(当時)殿の伝令として、終始御世話に相成っていた者で
ございます。昭和19年部隊本部の乗用車購入のため内地に出張さ
れ、帰隊されてより沖縄本島終戦まで伝令としてお供致しており
ました。戦闘惨烈、激烈化致して、我が313聯隊も、部隊本部以
下、余す僅少残兵を以て、部隊長大島詰男少佐以下総攻撃となり
ましてより、私は中隊編入を命ぜられ、防須少尉殿とはお別れ致
し、別行動を致しておりましたが、本島軍司令部最後の線、摩文
仁、というところで再会致し、共に元気の様を見て喜び合い、翌
朝又御別れしてより消息がわからず日夜案じて居りましたが、そ
の後、私は米軍の捕虜となりまして、色々と戦友その他の方にも
問い合わせましたが判然と致しませんので、もしやという気もし
て、捕虜作業中、暇を見ては、最後の激戦地摩文仁の海岸に行っ
て見ましたが、矢張り駄目でした。そして昭和21年12月には、幾
多の戦友を亡くした沖縄より引き揚げてまいりました。全く感無
量でございました。
勤務中、防須少尉殿よりお預かり致したものも有りましたので、
是非御家族の方にお知らせしたいと存じて居りましたが、御住所
が分からず、色々心当たりを尋ねて居りました処、過日、丁度東
京より疎開されたままで、目下当地に居られる方よりお聞き致し
まして、多分、現在も変わりない店でしょうと申されたのに力を
得て、失礼とは存じましたが、早速御尋ね致した訳でございます。
何卒、御家族様にて防須少尉殿の御消息につき、分かっている範
囲をお知らせください。お願い申し上げます。
敬具
日付を見れば、十勝屈足を9月11日に出されていて、その日に、
そういう遠方で正秀のためにこんな手紙を書いて下さる方があった
とは、私共の今まで知らなかったことでした。私は直ちに返事を認
め、併せて戦地で御一緒だった時分のことを、少しでもお知らせ下
さるよう、お願いを書き添えて出しました。
第二の御手紙は9月25日附で来ました。復員後6年間尋ね続けた
防須正秀の遺族と連絡が出来て嬉しいと認めてあり、どういう御生
活の方かということも、改めてここで知らされました。
私は昭和18年微集にて名古屋第八部隊に入隊、其の後和歌山船三
に転属になり、昭和19年編成にて防須見習士官殿(当時)等と沖縄
の警備に出征致した者でございます。復員後は家で父より継いだ百
姓を致して居ります。幼にして母を失い、父親に育てられ、私が出
征中は年取った父が一人で頑張って居りましたが、還って見ると田
畑は荒れ、家は傾き、全く当時は途方に暮れてしまいました。其の
後、妻を迎え二人の子の父として病弱な父を抱え、今ではどうにか
その日その日を送っている有様です。
激戦の最中に在って、共に一緒に死に場所を探した防須少尉殿の
御家族様、早速御邪魔してお伝え致し度きこと、お話し致したいこ
とは山程ありますが、それも出来ませんので書面にて出来る限り防
須少尉殿の伝令となりましてからの状況、激戦中防須少尉殿と共に
行動致しました首里軍司令部との連絡状態、防須少尉の遺品、死の
将校伝令、二中隊長となられ雨乞森の激戦等共に行動致しました有
様を順次お知らせ致したいと存じます。
私のような山村で育った無学な者がお伝えするのですから、定め
し読みにくい、分かり辛い点が多々あろうかと思いますが多少なり
とも防須少尉殿の戦斗奮戦の状況が分かって戴き、又偲んで頂けれ
ば幸いに存じます。私と致しましては、伝令と致しまして少尉殿の
模様を是非とも御家族にお伝え致す責任があるわけでございます。
それは後ほど、お伝えいたしますが、お知らせすることによって、
私の気持ちも軽くなる様な気が致します。最期を共にしようと互い
に誓い励ましあって居たのに、私ごときが生還し、少尉殿は御戦死
、然るに伝令である私が其の最期をも確認できなかったという事は、
何とも申し訳ございません。
先回、少尉殿から御預かり致していたものについてこ一寸書きま
したが、これは将校行李一ケ、軍衣、襦袢、黒川長靴、茶色のボス
トンバッグ、皮刀帯、以上は行李に入れてあったのですが、最後の
総攻撃で際、加藤少尉(岐阜県の人)が、壕より一斉に出動した後、
他の将校の行李とともに壕諸共爆破して壕を埋めてしまったわけで
す。それから戦斗終りに近付いてから少尉殿と、タバコのケースと
日の丸の寄せ書きをお互いに交換しあった訳です。これで互いに一
緒に死のう、もしどちらかが生き残った場合は、交換のタバコケー
ルと寄書きを家族に届けようという約束で、私は少尉殿のケースと
寄書きを持っていたわけですが米軍に捕らわれたとき、私の持ち物
とともに取り上げられてしまいました。それと嘉手納に居た頃、よ
く砂糖を買ったり、玉子、魚、果物等を買いに出かけたものです。
其の当時、預かっておりました現金八十円、これも一緒に取り上げ
られて申し訳ありません。遺品と致しましては今は何も持っており
ませんが、最後の摩文仁という処、当時は屍と血の海でしたが、捕
虜で作業中に遺品に代わるものとして、御家族にお届けしようと思
い、岸に洗われる小石を二、三拾って、どうにか隠して持って帰り
ましたが、後日、折を見て御送り致したいと存じております。
何分、郵便局まで一里半ある山間の寒村で御座います故、至急に
お知らせも出来ませが、追々、と折を見て御伝え致します故、悪
しからず御赦し下さい。
田中義徳
この文面でございましたが、以後、10月6日、10月22日、11月
15日、11月29日、12月7日、昭和27年2月10日、6月7日、計七回に
わたって書き送ってこられました。それを原文のまま、一冊にまと
めたのがこの本です。なお父にあたるビハリ・ボースの伝記の後に
載せるものでありまして、前後を割愛し、読者の方に分かっていた
だけることを旨とし、この形を取ることといたしました。
(以後続きます)
淀橋精華幼稚園時代の正秀氏
早稲田中学時代
早稲田卒業後の記念写真
妹:哲子、正秀氏、父親のリハリ・ボース
田中氏が手紙に同封した沖縄のスケッチ 昭和21年3月
田中氏が正秀氏と最後に別れた安里。
現在の摩文仁

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