井笠鉄道、笠岡・矢掛線の思い出、限りない郷愁
すべては消えていく、朽ち果ててゆく。もはや全てが記憶、
思い出の中だけにある、ということだ。不遇な家庭環境では
あったが夏休み、笠岡市山口、つまり新山村にあった祖母の家
に長く泊まり込み、昆虫採集などに夢中になった日々、は数少
ない、幼い日の好ましい思い出である。でもそれも楽しかった
のは小学二年までかな、三年になるとかなり家業が破綻してし
まい、落日であった。
笠岡市は1960年、昭和35年に人口75000人を超えて、農村部
の新山地区でもはっきり言えば賑わっていた。万事に活気を感
じた。ましてや笠岡駅、笠岡市街は十分すぎる街だった。いま
や井笠鉄道も2013年?くらいに廃業、笠岡駅も無人駅となった。
あの笠岡駅が、と子供時代の賑わい、盛況を思うと時代の流れ
だろうか。人口も最新情報で43100人にまで減少している。
祖母の住居のあったあたり、さまがわり、跡形もなく変化だが
わびしい方向に激変だ。人口減少、高齢化、徐々に廃墟だろうか。
妙にこぎれいな新築はあるが、どうにも活気はゼロである。
幼い日の故郷の思いでは井笠鉄道にあるが、そのころの写真は、
ほとんど残っていない。ないわけでもないが白黒である。井笠記
念館は新山駅を改造だが、今もあるのだろうか。
三笠博通画伯の油彩画
見事な画像は地元の画家、三笠博通画伯の油彩画である。実に
当時の雰囲気を見事に、別にその当時、実際を見て描かれたわけ
ではなく、基本は提供された写真を見て、だろうが、しかし見事
である。その油彩画で笠岡駅から矢掛駅までをたどってみたいが、
以下の本である。現在もFacebookをされてどんどん油彩画をアッ
プされておられる。この本を見ると矢掛のミヤケスタジオさんも
写真を提供されているようだ。2012に出された井笠鉄道の思い出
を真に伝える素晴らしい油彩画、もはやこれら、三笠画伯の油彩
画にこそ伝えられた井笠鉄道だが、出版された同じ年に井笠鉄道
後継の井笠バスは自己破産という形で倒産、終わりを迎えてしま
った。笠岡市の象徴的存在であった井笠は消えてしまった。この
画集はまさしく記念碑的である。
笠岡駅ホーム
1955年ころの笠岡市街
西本町踏切り
そこから、くじば駅方面を眺めたもの
くじば駅構内の整備機関所 笠岡市大久保
くじば駅
笠岡高校、笠岡商業の生徒たちが乗り降りしていた
県道、笠岡井原線を横切る踏切
笠岡市追分を走るラストランの井笠鉄道
笠岡駅から大井村駅にはいる
大井村駅
大井村駅近くの池
小平井駅南、今の笠岡インター北側
田んぼの中、大井村駅から小平井駅に向かう
小平井駅ホーム
吉田村駅
吉田村駅から新山駅に向かう(新賀〉
懐かしい新山駅
新山駅横の農業用倉庫 何度も数限りなく通った
北川駅、井原線と矢掛線が合流する
北川駅前
矢掛川から北川駅を見る 矢掛線と井原線が分岐している
小北中学が見える
小田川鉄橋を通って、小田の街が見える
小田川鉄橋
貨物車の上に人の姿、昭和20年代の光景
小田駅に
小田駅
毎戸駅
本堀駅
川面駅、矢掛の町が水害時、川面駅に避難させていた。
矢掛駅
矢掛駅ホーム
井笠鉄道記念館 2010年10月7日の私の撮影



各駅の写真が付いてます

1956年、昭和31年7月1日、井笠鉄道本社二階での創立4
周年記念
2010 年、遥か前に井笠鉄道が消えた矢掛駅、バスセンターに。
まだ、この頃は矢掛駅の建物が残り、往時の雰囲気が
わずかながら残っているが、今は建物はなく、面影は
ない。

駅舎が撤去された姿、更地である。

矢掛駅から町に向かうが寂れているもと矢掛駅近辺

この坂を登って

坂の逆方向 三原急便さんなどもあったような

坂の北側に、実は大昔、歯科医院でした。その後
、市街地に移転されて存続


栄橋、今は歩行者、自転車専用、この橋のたもとは美星へ
の起点です

栄橋を西方向から、大きく商店街が下がっていくのがわかる




商店街西端から、美山川と小田川が合流、水量が増加、でも
商店街はどんどん低い位置に、水害は避けられなかった


プラモの聖地、エラやさんの前

難波無線

焼失した寿司の名店、不二。
この記事へのコメント
写真展は初心者の登竜門で、7年後には山陽新聞月例写真コンテストに1~3席を「大名行列写真展」の初入選者が占めるという快挙を成し遂げました。
町政批判をする私を前町長山野通彦氏は相当気に入らないらしく「美術館を使わせない」と言い、そこまで気に入らないなら「写真展を止める。」
そういうわけで「大名行列写真展」は中止しています。
4年前、高齢者講習で笠岡まで行きました。途中事故でも起こしたら笑い話にもならないと思い、井笠バス・笠岡行で教習所まで往復しましたが、狭い旧道を通り懐かしく感じました。帰りのバスは笠岡から私一人でした。