森鴎外の脚気細菌説の悪名と高木兼寛の疫学的解決の栄光

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 古来、江戸患いの名称でも知られていた脚気、実に深刻な
病気であった。死亡率も高かった。その原因は明治になって
も確定されなかった。そこから陸軍軍医総監にまで上りつめた
森鴎外と最終的に海軍軍医総監になった高木兼寛、脚気で明暗
を分けた。、もっとも貧民散布論では森鴎外のほうが人道的意
見を述べた点で多少は森鴎外も得点を回復かも知れないが、実
際、昔の東京、貧民窟問題はそれほど深刻であった。

 江戸患い、また「大阪腫れ」とも言われていた。一般に「江
江戸患い」は箱根を越えると治るとされ、「阿之乃介」と呼ば
れ、一般にはこの名称が用いられていた。

 森鴎外の父親、森白仙も脚気で亡くなっている。津和野藩の
御典医で江戸居住時に発病し、文久元年、1861年に二人の従者
と帰途の旅で東海道の土山の宿で心臓発作で死亡している。

 明治維からすぐに政府は西洋医学を採用することを決定した。
そこでドイツ医学かイギリス医学かオランダ医学か、となった
がオランダ医学は江戸時代からの関わりもあり、簡単に絶縁は
出来なかった。イギリス医学は開国当初から公使パークスに従
者として付き添ったウィリスの存在が大きかった。戊辰戦争で
の負傷者の手当で西郷や大久保の高い信頼を得ていた。ドイツ
医学が採用されたのは、医学政策の中心にあった相良知安がオ
ラン大学の源流はドイツ医学として進言したことによる。

 実際、当時のドイツ医学はコッホの破傷風菌、結核菌、コレ
ラ菌のは発見など微生物医学を中心に世界を席巻していた。そ
の極度に分析的、微生物学研究に重点を置いたスタンスは日本の
医学界をも支配したのは自然だった。日本の陸軍医学の中心は石
黒唯忠直でドイツ医学のコンセプトで脚気細菌説を主張し、兵舎
の徹底清掃を命じた。

 そこで明治14年、1881年12月に陸軍軍医副で着任した鴎外はま
だ空白の栄養学でドイツ留学中に石黒に送った兵食論のとおりに
兵食を決定した。

 脚気は、都会化が進展し、コメに元来含まれている諸栄養素を
全て脱離させる精米技術に起因した栄養上の問題、微量栄養素の
ビタミンB1の欠乏が原因であった。

 まだ田舎では玄米か荒い精米の白米を食べていた者が江戸の来
るとほぼ完全精米の白米であったから脚気は必然であった。

 ところでイギリス人、ウィリスは日本政府のドイツ医学採用で
鹿児島に移り、鹿児島医学校を創設。ここで英語を学びたいとい
う高木兼寛と知り合った。高木は肺疾患に罹ったもののウィリス
の現実的治療で治癒、東京に出て海軍入りした。海軍は薩摩であっ
た。高木は軍医としてイギリスに留学、実際的医学コンセプトを
学んだ。ドイツ医学の病理学を基本の分析的医学と異なる実用的
医学を学んだ。帰国後、海軍での脚気問題に突き当たった。1982
年の壬午事変で軍艦、金剛、比叡、筑波は清軍の軍艦と戦闘寸前
となったが、乗組員は脚気患者が多発、戦闘不能だった。

 そこでイギリス的実際的コンセプトにより、脚気発生の多い艦
と少ない艦で何が異なるか、食物は各軍艦で購入、個々に調理で
あった。ここで問題解決の緒を高木は見出した。そこで龍驤で、
航海中の食事を麦飯、パン食、肉食としたところ他の条件は全て
同じ軍艦で多発した脚気が全く発生しなかった。ここで海軍では
脚気は解決に至るが、陸軍は高木の功績を一切認めなかった。

 鴎外も陸軍で東大人脈として栄養説を認めなかった。「余大沢
の論を是とし、高木の説を非とし、毫も翼蔽する所なし」。大沢
とは東大医学校教授で細菌説をとっていた。日清、日露でも陸軍
兵士に脚気は多発、多くの死者を出した。田山花袋『一兵卒』は
脚気で死んでいく下級兵士を描いている。日露戦争で鶴田偵次郎
軍医の麦飯採用の意見を鴎外は即座に却下した。

 1907年、陸軍軍医総監となった鴎外は陸軍省医務局長となって
脚気の細菌発見の機関創設を考えた。内務省は陸軍だけの問題で
はないとして認めようとしなかったが、鴎外は国防の問題として
強引に押し切った。来日のコッホも賛同を示した。

 その後、1910年、鈴木梅太郎が米ぬかから。また欧州でも玄米
からビタミンB1が発見された。脚気の原因は解明されたのである。

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