里見弴『怡吾庵酔語』1972、特権階層から平民主義、庶民主義への離脱の回想録
まずさすかにタイトルが難しい字である。画数は多くはな
いが「怡」である。「い」と訓読み、意味は「よろこぶ」音
読みもそうだ。これは里見弴の口述筆記による回想録で「中
央公論」誌上で1969年11月号から1970年12月号まで連載され
たという。里見弴は1888年、明治21年生まれであるから、昭
和44年、1969年で81歳であった。ともあれ81歳から82歳の時
の幼年時代からの回想である。
もうすまでもなく里見弴は有島武郎、有島生馬の弟である。
で里見弴は母方の山内家を継いで本名を山内英夫という。明治
41年、1908年に回覧雑誌「麦」を創刊したとき、伊吾というペ
ンネームを用いた。あの歴史に名を轟かす「白樺」の創刊が明
治43年、1910年である。その時に筆名を「里見弴」に改めた。
で最初の筆名、「伊吾」にかけて「怡吾(いご₎庵酔語」とした
のである。
以後、この本まで60年以上、作家としての生涯を生き抜いた。
その回想を語るが、いたってさりげない話ぶりだ。
大正2年、1913年、従来の生活態度から蝉脱を図り、「白樺」
に長編「君と私」を連載しかけたが、原稿紛失で中絶になって
しまった。長年の友人、志賀直哉との交友を中心に据えた青春
の告白でもある。だがその年の末に大阪に転居、ようやく家出
の形で蝉脱を成し遂げた。その辺りの事情について「素への道」
という節で述べている。
つまり、自分の中から他人の影響を追っ払いたい。友人や兄
から多くの貰いものをしたが、それらは預かりものであり、そ
れらをきれいさっぱり返済したい。一口で云えば、文学臭を自
分からなくしたい。喩えれば商人でもいろんなタイプがあり、
政治家と結託する政商のようなものもいるし、ただの商人(あ
きんど」、素町人のようなものもいる。つまり「素町人」のよ
うになりたい。浪人なら素浪人になりたい。そういう意味での
素人間になりたい、・・・・・・。
以上だが、作家だとか、白樺派とか、人道主義とか、そうい
うものから足を洗いたい、という念願もと、特権階層のあまり
に恵まれた家族、友人たちから離れて家出の形で大阪に移り住
んんだ。「人間」という雑誌を、同人雑誌を大正8年、1919年
に創刊したのもその考えの結果だろう。
で素人間となった里見弴、作品としてはどうだろうか。いか
にも上層の階層に所属、というもったいぶったスタンスや衒学
的な面は確かに消えた。芸術家、芸実という言葉が嫌いになっ
た(戦後、芸術院会員とはなった!)せいで、自分は芸術家じゃ
ない、芸人だ、一介の素芸人だ、「白樺派」の特権意識は捨て
たのだ。だから『多情仏心』とか平民の立場に身を置いた作品
が出来た。まことに端倪すべからざる作家である。
昭和2年5月、雑誌「改造」の文学講演で北海道に、芥川龍之
介と

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