大原総一郎、58歳での痛恨の死、美神に仕えた比類なき実業家。意外な食習慣

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 大原總一郎とは?まず、その父親の大原孫三郎を知らねば
ならない。大原孫三郎の業績は広範で比類ない。孫三郎の父
親は倉敷の大地主、倉敷紡績の初代社長。孫三郎は兄の早世
で大原家の継承者、嗣子になった。富豪の跡取りとして東京
専門学校に進学、だが放蕩にふけって退学、謹慎の身となっ
た。謹慎中に石井十次と知り合う、その芸術に惹かれ、また
社会福祉活動にも関心を持った。ともかく孫三郎はその生涯
1880~1943,で倉敷紡績(現・クラボウ)、倉敷絹織(現ク
ラレ)、中国水力電気(中国電力の前身)、中国合同銀行(
中国銀行の前身)などの社長を歴任、社会文化活動では大原
美術館の創設、倉敷中央病院の設立、大原社会問題研究所(
現法政大原社会問題研究所)、倉敷労働科学研究所(現大原
記念労働科学研究所)など設立、・・・・・・その子息が大
原総一郎である。1909~1968,

  

 したがって生まれながらに確かに特権階級ではあった。だ
が孫三郎の精神を受け継ぎ、「美神に仕える実業家」、「信
念に生きるお坊ちゃま」、「ビニロンの夢を追う聖君子」、
など類まれな形容をなされた。

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 明治42年、1909年、孫三郎の一人息子として倉敷に生まれ、
岡山一中、第六高等学校、東大経済学部に。孫三郎の事業で
利益を稼ぎ、それを社会文化活動に、というコンセプトを引き
継いでさらに発展させた。異色の実業家であった。孫三郎の理
想主義、芸術愛好、事業家精神が総一郎にも伝わったようだ。

 板画家、棟方志功は「三十年来、いつも大原さんの目を背中
に感じて仕事をした」と総一郎の死に号泣したという。「あれ
ほどの美の真実を語った人はいない」と云い切った。

 昭和14年、1939年、総一郎さんは30歳で社長就任、戦後、ビ
ニロンという国産の合成繊維の工業化を図り、見事に成功した。
技術指導にあたった京大の桜田一郎は「戦後すぐで、資金はな
かったが、大原さんはご自身で研究室に資金を届けに来ていた
だいた。倉敷レーヨンも苦しい時期だったが大原さんの意気込
みに打たれた」と。

 その後、独自開発のビニロンプラントを中国に輸出、反対を
押し切った。総一郎さんは「あの戦争の被害のせめてもの償い
をしたい」と述べた。

 クラレなどの社長として関西に在住、自宅は京都市の北白川
にあった。また鷹にいたく惹かれていた。長女の今はなき大原
麗子さんは「純粋培養されたような、純な心を最後まで持ち続け
ていました。子孫は先祖の誤りを正す義務があるともよく云って
おりました」大原麗子さんは美智子妃の弟さんと結婚されていた。

 入院中はニーチェを読み、、クラシック音楽を聞いていた。倉
敷市酒津にはクラレ中央研究所が完成間近だった。都市対抗野球
にクラレ岡山が出場していた。

 担当医に「もう10年生かせてほしい。まだやりたい夢がある」

 だが大原総一郎さんは1968年、昭和43年7月27日未明、直腸ガン
であった。孫三郎も63歳で亡くなったが、、さらに短命の58歳で
あった。

 ところで、・・・・・58歳での直腸ガン、その遠因かもしれない
エピソードを私は地元、石井本陣の当主、石井遵一郎さんの話とし
て又聞きだが聞いた。

 戦時下、総一郎さんが矢掛町の石井家、石井本陣に疎開していた
ときのこと、遵一郎さんは総一郎さんを町の「川崎屋」という、う
どん屋に連れて行った。大きな油揚げの入っているうどんである。
総一郎さんは、おいしい、おいしいと、10杯近く食べたという。正
確に10杯とはいい難いが、遵一郎さんは総一郎さんの意外な「大食」
ぶりに驚いたという。確かに恵まれている方だから、美味しものは
存分に食べられる。宴会嫌いで通り、お酒もあまり飲まなかった。
だが隠された一面、食通で大食漢だったのは事実のようだ。あるい
は直腸ガンの遠因となった可能性はあるだろう。


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この記事へのコメント

killy
2025年04月06日 08:42
うどん川崎屋は、中学・高校時代にかき氷を食べに行っていました。
大原家の美的センスはDNAで引き継がれているのでしょう。
アイビースクエアは、ホテル事業に進出当初、役員会では普通のホテル風に建てる意見が多かったそうですが、社長の鶴の一声で旧建物を残した倉敷風に合致するホテルになりました。