小山清『日日の麺麭』短編集 1958,収録の『風貌』で太宰との思い出を語る

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 まず「麺麭」は「パン」と読む。パンを漢字で「麺麭」とは
この作品のタイトルで初めて知った。小山清さんが1948年、昭
和23年6月16日に夕張炭鉱にいるとき「ダザイオサムシンダ」
という電報を受け取った。なおこの本は短編集である。

 小山清さんはそのころ、心臓を悪くして炭鉱夫としては働け
ず、坑内に新設された道具番係をしていた。北海道まで来て「
一年をウヤムヤのうちに過ごしてしまったが、それでも新たに
出直したい」とあと、一、二年は頑張るつもりだった。しかし
ながら太宰が死んだと知ってはそうはいかず、、その年の10月
初旬に東京に戻った。

 清さんが太宰を初めて訪ねたのは1940年、昭和15年の11月中
旬で、その時は東京の下谷にある新聞販売店で働いていた。あ
まりだから何かをやる暇もなく、たまにしか訪問することは出
来なかったが、書いた原稿を持って行って太宰に読んでもらっ
ていた。

 「訪ねる時は、いつも半ば『駆け込み訴え』の気持ちであった」

 「生活を荒らさず、静かに御勉強して下さい。いますぐ大傑作
など書こうと思わず、気長に周囲を愛してご生活下さい。それだ
けが、いまの君に対しての、私の精一杯のお願いあります」とい
うような文面の葉書を受け取ったこともある。

 清さんは太宰が「はじめ甲府に、その後金木に疎開中、ずっと
独りで三鷹の家の留守番をした。二十年四月から二十一年十一月
までの期間である」

 その後、しばらく同居し、二十二年の一月末に北海道に渡った。

 これは『日日の麺麭』という短編集に収録の太宰治について述べ
ている『風貌』からの引用で太宰とのつながりについての記述は興
味深いものがある。

 「私は太宰さんと会って、太宰さんの人柄が、またその生活が
作品と一枚のものと知った。太宰さんはまた非常に率直な人であっ
た。いつ死んでも悔いのないように、好きな人にはこだわりなく好
きだと云っておけと云っていたが、すべてにそんあところがあった」

 『風貌』には太宰の「暗い眼差をした」そして、やさしくはにか
んだ「風貌」と「率直」な言動を伝え、同時に太宰の師の井伏鱒二
が太宰にかけた「情熱」と「愛情」を語っている。

 井伏、太宰、清さんが戦時中に三人で甲府の武田神社のお祭りに
行ったとき、井伏が沢のような場所に足を踏み入れ、何やら草を摘
んでいるのを見た太宰が清さんに「井伏さんってやさしいね」と呟
いたとある。

 短編集『日日の麺麭』には『ゴタ派』という作品もある。十五の
短編が収録されているが非常に短いものがある。その中に『ゴタ派』
という作品は。映画の三流俳優、貧乏画家、インチキな麻雀師、自称
コミュニスト、三文文士、新派の下っ端女優などの「まとも」でない
人々が古書店に出入りする交友の模様を描いている。でもどれも、い
たって小作りな作品である、私小説だから、そうなのかもしれないが。


 「古本屋仲間では、棚に並べてもまともな商品として扱えない本を
ゴタという」均一商品の立て札で売られるからだという。太宰はそれ
らの人々を『無頼漢』という作品に描いたが清さんは遊民としてとら
える。それらの人たちを温かく描くというのは太宰と相通じる。ユー
モア、ペーソスで独自の味を出すが、どの作品も非常に小作りである。
太宰は優しいだけではない、井伏も、清さんはそれを見抜いただろう
か。本のタイトル作の『日日の麺麭』は題名に凝り過ぎはちょっとだ
が、・・・・・「パン」に漢字の「麺麭」っでしかもパン屋の話でな
く、屋台のおでん屋さんの話なのだ、庶民のいい味を出していると思
う。

 小山清さんは生活は不遇で1962年、妻が困窮に耐えねて自殺。生活
保護となっていたのだ。清さんも1965年に病死、浅見淵が「もう聖小山
清と呼ぼう」はやや感傷に浸りすぎでも、その気持ちはわかる。純な人
だった。ご子息が東京芸大教授絵画の教授と立派に成長されたことは読
者の慰めとはなるだろう。

 

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