中谷宇吉郎『日本のこころ』1951、文藝春秋、随想集。読者をからかっているのだろうか、これを「日本人のこころ」と言われたら困ります

この本は昭和26年、1951年に文藝春秋社から刊行された本で
360頁を超える。多くの随想を収録したもので、その中の一つの
随想が「日本のこころ」である。だから一冊の本の『日本のここ
ろ』を論じるのはその数多くの随想を読むことであるが、「青空
文庫」の「日本のこころ」は随想集の中のタイトルエッセイ「日
本のこころ」である。ここでは刊行された随想集の『日本のここ
ロ』を論じる。それらの個々の随想の多くは「青空文庫」に掲載
されている。
さて、この363頁の『日本のこころ』
「科学という言葉は、日本では非常に誤った意味に解されてい
る。科学の一番よい定義としては、良識の精髄というのが最もよ
い」とある。ごもっともな文章だが、それを読んでいくと「現在
の日本では、科学そのものを必要とするところまでいってはいな
い」
さらに「日本の国は、まだ科学の知識を活用するところまで到達
していない。せいぜいのところ、科学者の知慮が役に立つことがあ
るくらいのところだろう」
これを読むと惨敗、終戦後の日本とは云え、日本も随分と見下げ
られたものと思える。しかし、科学が良識の精髄と言うなら、良識
くらいは日本にも必要だろう。活用だってできるだろう。ならこの
場合の「科学」は「良識の精髄」という意味ではない、のだろうか。
さらに先には「科学は現在では人間よりずっと強くなっているか
ら、人間の感情など簡単に踏み潰して前進する」とある。「良識の
精髄」がなぜ「人間を簡単に踏み潰し、前進していく」のか、さっ
ぱりわけがわからなくなる。まして著者の中谷は良識ある科学者の
代表のようにされているのだから。
まあ、著者が読者にウソをついているわけでもなかろうが、どう
も半分、読者をからかっているかのようだ。。筆致からそれは確か
なようだ。しかもちょっとたちが悪いからかいである。読者はまず
科学者の文章は真摯で主観的には真実を書いている、と思いがちだ。
だからちょっと支離滅裂な矛盾を読まされたらどうなるだろうか。
この本に収録に随想、随筆はどれも文中にやたら科学という言葉
は数史知れず出てくる。それらの数多くの科学という言葉は、それ
ぞれが正当な意味を持っていると読者は思う。だが実際には実に、
いい加減である。科学者が書いた随想だから、科学的な随想と思っ
て読むと、結果は、およそ科学的でもない随想を読まされる。つま
り読者をからかっている、ということだ。
街を歩く西洋人に職人風の男が「もしもし、西洋の旦那」と呼び
かけ、列車の中で日本の小説、三四郎を読んでいる西洋人に隣席の
男が「お国ではもうそういう字が流行りますか」と聞いたことを取
りあげ、随想『日本のこころ』とする。こしらえている、のだ。
小泉八雲の随想「こころ」Kokoro、と品位が天地の差で劣る。「
日本のこころがこういう言葉の中に片鱗を見せている」というため
には、外国人ならそういうことを云わないのか、その言葉の意味内
容が歴史的にいかな意義を持つのか、それも考えず、これが「日本
のこころ」だと云うのだから科学者としても独断にすぎるし、直感
的に云う場合でも、「日本のこころ」といえる道理はない。同様の
独断は幸田露伴が死ぬ間際「じゃおれはもう死んじゃうよ」という
言葉を引いて「今までにああいうことを言った人はいない」に始ま
る長々とした随想を書いている。
「電気冷蔵庫がなかったら、現代のアメリカの食生活はない」と
いうのもあきれた独断である。一時が万事、ボールダーダムの建設
の由来、ソールトン湖の出来た理由についての随想も、大事な重要
な事実が抜けている。植林しただけで水害は絶対なくなる、とは誰
も思ってないだろうが、これらのことを云うために回りくどい議論
をして長々と書いている。
その随想もなにかもっともらしく書かれているが、根本に誠意を
欠いている。なんだか、悪質な科学を装うカモフラージュを見せら
れたような印象だ。
この記事へのコメント