福原麟太郎『芸は長し』1956,シェイクスピアと日本の古典芸能についての話

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 今年、世界バラ会議が開催される福山市出身の英文学者の
福原麟太郎のエッセイ、戯曲文学と演劇、主に日本の古典的
な芸能についてのエッセイを集めたもの。現在も、入手可能
である。ただエッセイと云ってエッセイばかりではなく、講
演、演劇評、書評など雑多を極めている。それをともかく一
冊の本としている。前半は福原さんが専門とするシェイクス
プアについての文章、後半は歌舞伎、能、狂言の鑑賞の文章、
ほんの僅かだがイブセン論、また落語家の追憶などを述べて
いる。

 要は前半は専門たる英文学、その特に専門のシェイクスピア
劇についてだから、まさに自家薬籠中の限りない知識、考えを
駆使し、その真の面白さ、妙味をわかりやすく展開、で当たり
前ながら非常に充実した文章である。But 後半は福原さんが
実際、素人である日本の芸能についての鑑賞、思いを実に楽し
げに綴っている。

 でも思うのだが、この日本、「英文学者」は非常に多い、ど
う考えても希少価値はゼロである。福原さんは東京高等師範、
まことに一流の学校だが帝大の卒業ではない。それでかくも英
文学者としてこれほど著名になれたかといえば、専門的な内容
を実に平易にわかりやすく、述べる術に長けていることだろう。
で、本書のシェークスピアについての文章はそれがまた典型的
に現れているのだ。といって、ものすごい才知あふれる文章で
もない。ちょうどいい程度、なのだ。それがまた絶妙と云えば
絶妙である。

 シェークスピアの伝記、といって実在にしても創作別人説も
あるのだが、それには触れていない。当時、すなわちエリザベ
ス朝における劇場の話、シェークピア劇の面白さの秘密、各国
でのシェークスピア劇の上演の様子、翻訳の話、シェークスピ
アの基本的なテーマは一通り述べられている。だが全然、専門
家ぶったところがない。

 シェークスピアは各も有名だが、内心、シェークスピアを好ま
ない日本人はじつは多い、何よりも真に近代文学ではないから、
その文学的香りも親しみにくい、のである。とっつきにくい、だ
が口には出しにくい、しかし福原さんは商売柄にしてもシェーク
スピアを「何と美味しい食べ物であろう」と手放しである。「
ただシェークスピアを読むことを楽しむだけでにいい、そういう
人の多からんことを祈る」無論、シェークスピアの作品には「
作者の人生観、世界観が自然に宿っている」が決して思想家でも
社会改革家でもないと言い切る。要は「人生をよく見て、それを
面白い芝居にして、その時代の人々を楽しませた劇作家」だとい
う。

 後半は素人としての鑑賞、思いを綴るが、全然、通ぶっていな
いのだ。後半では「美しい」という言葉がやたら繰り返される。

 「歌舞伎は消え去ると、いつの時代も言われてきたが、偉い役
者がいて、美しいものを舞台の上に展開して見せてくれる間は
大丈夫だ」、また「能のような美しいものは、永久に持っていた
い」

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 ちょっとシンプルすぎるが、別に全て感傷的に因襲、伝統を礼賛
しているわけでもない。妙な知ったかぶりの新解釈もないが、例え
ば能をただ謡曲、仕舞いのお稽古客や、一部評論家や、芸能者自身
の「胸の内」のものだけにする興行のあり方には辛辣に批判を行っ
ているのは鋭い。「能の意味を一般の思考の言葉で解説する」、つ
まり能をあまりに狭い世界に閉じ込めず、もっと広い世界に出すべ
きというのは、著者のような素人客も大切にして教育もすべき、と
いうことで演出にもかなり批判を行っている。それに同感できるか
どうかは読者の考え次第だが、異論もあって当然であろう。

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