米重巡インディアナポリス撃沈の栄光のイ58号艦長、橋本以行氏、29年目の逮捕

アメリカ海軍の重巡洋艦インディアポリスは米本土からテニ
アン島への原爆輸送の任務を負っていた。広島、長崎に投下さ
れたトールボーイ、ファットマンを輸送も完了し、まず間違い
なく三発目の原爆を米本土からテニアン島に輸送の途中だった
と推測されるその航行途中、1945年7月29日、南太平洋をテニ
アン島に向かっていたところ日本海軍イ58に発見され、撃沈さ
れた。
この時のインディアナポリスはテニアン島に向かっていたの
だから、間違いなく日本に投下予定の三発目の原爆を運搬して
いたはずである。でなければ航行に意味はない。スクルリュー
音を探知したイ58号、潜望鏡で戦艦と判断した。回天の発進
準備は完了の報告はあったが、橋本艦長は魚雷で十分仕留めら
れると判断、六発の魚雷を発射した。そのうち三発が命中した。
結果的に、アメリカは決して認めないが、日本への三発目の原
爆投下を阻止したという可能性は高い。南海上に投げ出された
インディアポリスの乗組員たちは長時間、米海軍が沈没に気づ
かず会場で漂流、サメの餌食になった乗組員も多かった。この
悲劇は映画「ジョーズ」にも取り入れられた。
橋本艦長は大型艦単独航行を疑問に思ったっが「アイダホ級
戦艦撃沈」と報告した。
橋本以行艦長は海兵59期、昭和6年卒で真珠湾攻撃では特殊
潜航艇をパールハーバー近くまで送り込んだ。その後も潜水艦
艦長として潜水艦を乗り継いだ。戦後はワシントンまでインディ
アナポリス撃沈についての詳細な尋問を受けた。別に戦犯容疑で
はない。
橋本艦長は戦後、川崎重工潜水艦設計部に入った。昭和46年、
1971年に退職、だが橋本以行氏の名声というのか、人気は凄ま
じく海運会社などから引く手あまただったという。やはり船へ
の情熱は止みがたく、川重を定年退職後、再び船長として返り
咲いた。
1974年、昭和49年7月27日、夕方から降り始めた雨も午後8
時にはあがった。モヤも薄くなった、午後10時すぎ、広島市
宇品港から東洋工業製造の小型トラック1500台を積載し、貨物
船「菊光丸」瑞東海運所属、12000トンは出航した。アメリカの
ロサンゼルスが行き先だった。橋本船長はいったん船長室で睡
眠をとった「何かあったら起こしてくれ」と伝言して。
翌日午前5時頃、橋本船長は操舵員からのノックで目をさまし
た。「霧が濃いのでデッキに上がってほしい」との伝言だった。
橋本船長、デッキに上がるとたしかに濃霧だった。視界は100m
もない。航海士はレーダーを見ながら15ノットで操船していた。
レーダースコープに三つの点があった。その具体的位置を確認し
ようと海図を見ている瞬間、ドーンと激突音。午前5時30分だっ
た。大分県佐伯市沖、正津相手はパナマ戦籍の貨物船「ウェスタ
ンスター号」韓国人乗組員26名、3000トン、救助されたのは二人
だけ、後の24名は行方不明となった。
大分海上保安部は7月29日深夜、橋本船長と航海士を業務上過
失艦船転覆と過失致死罪で逮捕した。同保安部は「橋本船長が
当直についたばかりだったことや、初乗船は認めるが全速力で航
行していて『5ノット』と虚偽の証言を乗組員にやらせたことが
判明し、逮捕に踏み切った」と述べたという。濃霧での航行は危
険であり、停船すべきという厳しい評価だった。
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