葛巻義敏さん、『芥川龍之介未定稿集』に捧げた生涯、執筆の十年間は無収入、脱稿後、身体障害に、その晩年


 1968年、昭和43年に岩波書店から刊行された葛巻義敏編著
『芥川龍之介未定稿集』は芥川の愛読者にはお馴染みの本だ
と思う。分厚いが価格は購入しやすいレベルだった。

 その葛巻義敏氏、龍之介の甥くらいは知ってはいたが。実の
姉の息子である。明治42年、1909年生れ、13歳から17歳までの
四年間、芥川家で暮らした。同じ屋根の下である。人生の重要
な時期を龍之介の書斎の隣室の座敷で過ごしたのである。いや
でも芥川から大きな影響を受けたはずだ。『未定稿集』の最初
の方に、龍之介の自殺の前日の様子を詳しく綴っている。

 書斎と座敷の間には廊下が或るだけで、入口は向かい合って
いた。イヤでもお互いの行動が丸見えだったという。葛巻さん
は龍之介には本当に可愛がられたそうで、葛巻氏宛の書簡には
「婆加義敏佐麻」とか「江良以叔父様」などと、おどけた調子
のものもある。その偉い叔父が、葛巻さんが18歳になる直前に
自殺した、通夜も葬式も親族同士のすったもんだも、ずべて目
の当たりにしてきたのだ。

 比呂志、多加志、也寸志の7歳、5歳、零歳の三人の遺児、み
な幼かった。実際に生前の芥川をよく知る人物として葛巻さん
は早速、岩波からの「芥川龍之介全集」の編集委員として堀辰雄
などととも誘われた。やはり龍之介の甥、しかも同居、というこ
とは、やはり文壇でも特別な地位を与えられていたというべきで
あった。

 さらに葛巻さん自身、文学に関心が深く、武者小路実篤に心酔
していた、まさに文学青年であった。そこで自身も文学の道で筆
一本で生きていこうと考えた。堀辰雄、中野重治らが参加の同人
誌『驢馬』にも参加、また坂口安吾も同人の『青い馬』に幻想的
な小説を発表するが、結局、高い評価を得るに至らなかった。

 『芥川龍之介未定稿集』脱稿後、それは昭和43年だったが、亡
くなったのは1985年、昭和60年であった。脱稿後、しばらくして
葛巻さんは鵠沼海岸に妹の佐渡子さんの世話になりながら住んだ。
夫人、二人の子とは別居であった。昭和56年、1981年の6月の週刊
誌記者の取材では、家は台風で破損し、そのままであった。足の自
由がほとんど効かなくなっていた。当時、71歳だったが歯も全て喪
失に近く、発話も不明瞭で全く聞き取りにくかった。佐渡子さんが
変わって取次いだ。71歳と69歳の兄と妹、もうその時点で龍之介の
資料はほぼ全く保有していなかった。

 葛巻さんが『未定稿集』の編著に取りかかったのは昭和30年代の
初め頃だという。自分の手元にあった龍之介の未定稿、ノート、書
簡の全てをひとつひとつ整理し、吟味、書き写し、注釈を書く。ま
さに、おそるべき作業となった。・・・・・「十年かかりました」
という。最後の、三、四年は机の前に座りっぱなし、で全く運動不
足の極みで足が不自由になってしまった。

 『芥川龍之介未定稿集』は1968年、昭和43年に刊行された。葛巻
さんは職業は持たず、その編著に没頭の10年間、全くの無収入であ
った。家族には愛想を尽かされて別居の原因に。ただ収入は、神田
神保町の古書店「三茶書房」岩森亀一さん店主、に資料を売却する
ことだけだった。一方で岩森さんも買うのみで売らずで相当に生活
を切りつめたという。家族も奥さんは着物を売ったり、節約の際み
を強いられた。だが資料を売った先が三茶書房、「売らない」とい
う古書店のため、資料はその時点で散逸は免れていた。葛巻さんも
手放したくはなかったのである。

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