漱石の『それから』と島崎藤村の『家』、「男女関係」へのアプローチの「反自然主義」と「自然主義」の違い
ところで夏目漱石の『三四郎』、『それから』、『門』は
よく「三部作」と称されるが、爽やかえでかっ達な青春小説
の「三四郎」と後の二作品『それから』、『門』とあまりに
雰囲気から筆致、モチーフが違いすぎる、と怪訝に思っては
きた。『それから』は確かに不人気な作品だ。概して「三角
関係」ばかり書く漱石だが、それほど男女関係に関心があっ
たのだろうか、私生活を見ても理解しがたい。
そこで『それから』、友人の平岡と三千代との夫婦関係は、
正しいものとして誰も疑うものはいないが、実質的に惰性だ
けのものであり、互いに信頼と愛情は失っている。倫理的に
は好ましい夫婦のあり方ではない。このような三千代に代助
をして愛情を告白させることによって、漱石は結婚と恋愛
の倫理を確かめようというのである。
代助はついに平岡に向かって宣言する「矛盾かもしれない。
しかし、それは世間の掟という夫婦関係と、自然の事実とし
て成り上がった夫婦とが一致しなかった、という矛盾なのだ
から仕方がない。僕は世間の掟として、三千代さんンお夫で
ある君には詫びる、だが僕の行為は、真実と何ら矛盾してい
ない」
だが漱石は主人公の代助をそのまま勝利者とはしていない
のだ。やがて破局に対して代助は罪を問われることになる。
そもそも出発時点で、代助が三千代との恋を安易に平岡に譲っ
たのは誤りだった、と漱石は示している。だが自分の本心を
隠していたことを間違いとして最後の解決に見出したのでは、
この小説の提出したほんとうの解決にはなるまい。
愛情と信頼を失った惰性的な結婚生活に疑問を投げかけな
がら、結局、自分の本心を引っ込めたことが誤り、という、
逆戻りに解決を見出したことが漱石の倫理の不徹底なところ
だが。他方で惰性的な結婚生活に倫理的批判を浴びせたこと
は、ひとまず意味があるというものだ。
『それから』の三角関係の不徹底ながらのテーマは『行人』
でまた別の形で示される、『それから』はつまらないが『行
人』は力作長編だ。『行人』の主人公は平岡の立場だ。
だが、・・・・・・なぜ漱石は「三角関係」にそれほど関心
があったのか、その私生活に対応する要素は見いだせない。
★島崎藤村の『家』
で島崎藤村だが、・・・・・実の姪が好きになって姪に子供
を産ませるという失態を演じた藤村、その悪名からの立ち直り
を『新生』という小説にしたのだが、芥川が「はたして新生は
あったであろうぁ」と鋭く疑念を呈した。・・・・・それはさ
ておいて、藤村、正宗白鳥ら自然主義の作家たちにとって「動
かし得ない」現実として描き出される。
例えば藤村の『家』では妻を愛し得ない夫、夫を信じ得ない
妻が、先祖からの重苦しい家を背負いながら、暗くうごめく姿
が描かれている。国家は日清,日露で勝利、その後の時代を背
景、この時代の暗い家の姿を克明に描いている、それを自然主
義というのかどうか、冷静な観察である。『家』は筆致からし
て漱石の作品とはまるで趣は異なるが、やはり既成道徳の形骸
した性格に不信を抱き、まずは現実を足下を見つめようという
スタンスだ。根底にはやはり人間の倫理を求める点で漱石と、
変わることはない。
『家』は『春』に続く自伝的小説第二弾で近代資本主義の
波に洗われ、没落する封建的な旧家の実態と、そこからの脱出
を願いながら、むなしく破滅する人間の苦悩を描く実に重厚な
小説だ。長編である。内容はほぼ事実に即している家族制度の
重圧は息苦しいほどで自然主義的手法が達成された作品である。
正直、、三角関係の漱石作品と比べ、格が違うと感じさせる。
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