また猫と暮らすという願いは叶えられそうにない。思い出だけでいいかもしれない。
思い返して、人生は時間的には本当に短いと思う。短いのだ
が、私の場合特に、よくぞあれだけの短い時間の間に、あれほ
どの災難、不幸、病気、苦渋、汚辱が詰め込まれたものだと我
れながら、呆れ果ててしまうただ、これは個人差が大きい、全
くいかなる不幸もない人間もいないと思うが、ケロッとして「
不幸なんか特になかった」という奴もいるわけだ。生きるとは
この世を、束の間でも「見せていただく」ことだが、それは親
を介してである。云うならば、この世への「紹介者」は親であ
るが、「紹介者」の良し悪しで基本的なこの世の住心地は決ま
る、・・・・・くだらないことを言うようだが、ある意味、そ
れは否定できない。かくして。なんとも短期間に不幸、災難、
苦渋の凝集した中性子星のようなもの、・・・つまらない喩え
でもそうとしか思えない。
だから子供時代から本当に今考えても信じられないほど、
すさまじい苦難の嵐であったのは事実、その唯一の救いは、苦
楽をともにした猫だった。一匹じゃない、飼った年月の長さは
違うけど、忘れられない猫はさん匹、かそれ以上、だがうちの
親の手にかかって無惨な最期を遂げるに至った。長年飼った、
家族同然の猫を邪険に「捨ててこい」と親父に言った「母親」
その無慈悲さは一時が万事というものだった。その母親の死に
全く悲しみがなかったのは云うまでない。
そこで、今はなんとか生活は落ち着いている。子供時代、青
春時代、若い時代のとんでもない、喧騒に明け暮れた家庭とは
異次元の平穏さ、もちろん、これが普通というものだが。
いつの日か、悲しい別れの猫の冥福を祈るとともに、猫とも
ういちど暮らしてみたい、というのはずっと前からの念願であ
る。だが、現実、昼間は家族全員が職場に出るので、猫だけを
家においておくわけにもいかず、また家に一人にして閉じ込め
ておくのも無理というもの、・・・・・断念である。さらに
むかし、苦難をともにした猫と同じような「人間味あふれる」
性格の猫はちょっといないということもある。やはり、思い出
を大切にしておくだけでいいのだろう。ペットショップの猫は
目が飛び出るほど高価、「保護猫」は、・・・・・いずれにせ
よ、現実、飼える状況ではないのである。
長く苦楽をともにしたのは黒猫だった。

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