向田邦子の遠東航空、台湾での機体空中分解による墜落死、遭難

別によく知られたことである。放送作家で多くのヒット作品
(番組)を生み、死の前年には直木賞まで受賞し、栄光の絶頂
かと思われた向田邦子さんが1981年8月22日、台湾で遠東航空
機 B-703に搭乗、離陸からほどなく高度6700mで水平飛行に
入った直後に機体が空中分解、乗員、乗客110名全員が死亡し
た。志和池昭一郎に誘われての台湾取材の旅のはずが、唐突に
最期を遂げてしまった。
その墜落事故報道はその翌日の朝、ラジオで聞いた。出発前、
向田さんは不在時の電話自動応答を録音しており、それが流さ
れていた。私はあの時期、仕事もやめて、これからどう生きて
いこうか、と思うあぐねてアパートの部屋で布団に朝、くるまっ
っていたものだ。・・・・・・あれから44年になる。
向田邦子さんの原点はラジオドラマ、というのか、「森繁の
重役読本」というドラマ、というよりラジオエッセイーである。
これは5分間の番組で1962年から1967年まで続いた。テレビ放送
作家としての真のヒットは1974年からの「寺内貫太郎一家」であ
ったが私は大学進学で家を出てテレビを下宿、アパートに置いて
おらず、テレビ番組はよく知らなかった。それまでの「時間です
よ」は名ドラマだったが、向田さん一人の手になるものでもなく、
結局、真のテレビ放送作家としてのヒットは石屋の親父の番組で
あった、・・・・・まあ、それらはよくしられた事実で、あえて
述べる必要もない。
だが、遭難の翌々年、写真月刊誌でインデックス出版から「Shu
tter」という新たな雑誌が創刊された。その創刊号だが、向田邦子
さんの無惨な遺体写真が掲載された。これはネットでも見られる
わけである。私は、この創刊号を所有しているが、この無惨な遺
体写真を撮ったものはだれだろうか、という疑念がそれによって
払拭できた。
その文章部分はネットでも読めないが、参考までにここに転載
すると、・・・・・・実は誤りが多い。全部ではないが以下のよ
うである。
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台北発高尾行き、「遼東航空(注、遠東航空の誤り)103便 ボー
イング737型機の墜落事故の印象が薄いのは、遺族団の坂本吉勝
弁護士が「公表されねばならない事故報告書も極秘扱いで、未発
表です」と語るように、補償問題も進展を見せず、続報も少ない。
国交断絶で、サンケイしか駐在しておらず、結果、台湾が近くて
遠い国となっている一因である。
ところが同便に乗り損なって命拾いし(この事情はWikiに述べ
られている)台北市内の賓儀館に収容されていた遺体と対面した
日本人カメラマンがいた。事故の翌日、早朝にそこに70あまりの
黒焦げの焼死体がコンクリートむき出しのガレージの床に、無造
作に放り出されていた。さらにトラックで遺体は次々と運び込ま
れて数を増していた。まもなく警備司令部の憲兵と警察官が入口
を固め、遺体との関係を証明できないものは締め出されていった。
このカメラマンの撮った写真の中に、向田邦子さんの遺体もあっ
た。それは他の遺体と同じく、黒焦げで、四肢は炭化し、焼け
落ち、顔は皮膚が頭蓋骨に貼り付いていた。識別も出来なかった
が乳がん手術で乳房を片方、切除のあとが決め手で確定された、
とされる。
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私はずっと向田邦子作品を読むこともなくきたが、そのエッセ
イを読むと心惹かれるものはある。作品の要素、3点あるとされ
る。
明治、大正の頑固親父
不倫
虚構の美学⇒私小説の虚構世界へのバージョンアップ
その父親のイメージがそもまま作品中の父親像になった、とされ
ている。
今、生きておられたら96歳である。ちょっと、・・・・である。
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