角田文衛『椒庭秘抄-待賢門院璋子の生涯』崇徳・後白河の生母、待賢門院璋子の「性生活」の暴露など実証史学のおそるべき成果

角田文衛、「つのだぶんえい」という方は歴史学者として
偉大で役職も平安博物館館長兼教授、古代学研究所所長兼教授
、大阪市大教授など歴任。したがって小説家ではない。この本
も歴史書である。読むためには事前、歴史への教養も要求され
るだろう。
保元の乱は崇徳・後白河の兄弟の争いだが、この二人の帝は
生母が同じである。『椒庭秘抄-待賢門院璋子の生涯』はその
帝兄弟の母、待賢門院璋子の伝記、単なる伝記ではなく、彼女
の生涯の緻密な歴史学的な考証、特にその性生活の大胆な暴露
なのである。
白河法皇は「日本歴史上、稀に見る独裁的な天皇」であったが、
さらに「荒淫な性欲の持ち主」であり、例えば、その侍妾、祇園
の女御を独占のために、彼女の夫とその一族を流刑に処したほど
だった。祇園の女御は子どもがなく、権大納言、藤原公実の末娘
、璋子を養女とした。当時、50歳を超えていた法皇は寵妃の養女
を溺愛し、5歳の時、もちろん璋子が5歳のときだが、自分の養女
として以後、院内で養育した。
で、・・・・・璋子は13歳で初潮、白河法皇は璋子の結婚相手
に関白、藤原忠実の子、忠通を指名も忠実はやんわりと反対、や
がて罷免され、忠通が関白となった。
忠実の日記では、璋子は「隅におけない姫君」とあり、音楽の
師の藤原季通や権律師、増賢の童子と密通していたとある。だが
平安時代とは想像以上に、恋愛についての考えがユルユルで、処
女性は全く無視された。そういう時代の風潮を考えると、忠実の
筆致は峻烈で、さらに曖昧なのだ。この謎めいた筆致と、当時、
絶対に許されなかったのが、義父、義母との性的関係と思えば、そ
こから法皇とその養女との密通があったと十分推定される、忠実が
反対した理由は、まさに近親相姦なのであった。
法皇は当時、17歳の璋子を自分の孫の鳥羽天皇、15歳の中宮と
した。新婚の璋子は白河法皇の愛撫を忘れがたく、鳥羽天皇に体
をゆるさなかった。ただこの拒否も長くは続かなかったようだが、
彼女はしばしば里帰りし、法皇と床を共にしている。つまり孫の
妻と法皇の近親相姦である。この行為で璋子は妊娠し、皇子、顕
仁(彰人)を産んだ。これがのちの崇徳天皇である。
この崇徳が白河法皇の子であるという推定は、璋子の生理の詳
細綿密な考察に基づく。これは実証史学の驚異の成果なのである。
鳥羽が崇徳を「叔父子」叔父である息子、と呼んだことからも判
る。
この時代、日本歴史上、空前絶後の性の自由、乱れが極まった
時代という。院政の時代の実態が、こうしてその醜悪さが現代に
暴露されたのである。これが保元の乱の遠因というのも説得力が
ある。
本書は実証史学の暴露の次ぐ暴露である。だが著者は璋子、白
河に妙に逆に穏やかである。
、
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