人生、残り一秒でも人生の目標、自分探しのた旅に何の変わりもない

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 不定期でだが、すべての人間、の頃時間は刻々と短くなって
いる。生きる人間すべてが云うならば限界状況に置かれている
わけだが、人生の残り時間など、そもそも人間には僅か二桁の
年数しか寿命は基本、与えられていないわけだから、考えても
仕方がない、ということである。残り時間どころか、人間、い
つ命を落とすかもしれないのである。そこで、特に高齢化した
とき、まあ70歳以上だろうが、そこでもう、残り僅かと感じ、
「終活」と思いがちなものだ。・・・・・私のように、早くか
ら大病し、明日など分からない、という心境で生きてきた人間
にとって寿命の上で、残り時間が短い、などいうことなど、今
さらという思いでしかない。だから70歳になったから、75歳に
なったから、「それがどうした」である。心の秘めた人生の目
標、その内容は様々だが、例えばロシア語の習得、フランス語
原文でゾラ、モーッパサンを読みこなす、「レ・ミゼラブル」
をすべて読みとおす、もちろん例えばの話であるが、別にそれを
強制する外的要因もないから、実際、遅々として、であっても、
である、その目標自体は何歳になろうが変わる道理はない。それ
は人生とは自分探しの旅に尽きるのであって、別に汚名を晴らす
などはどうでもいいことであるからだ。

 100歳以上も今の日本、特別、珍しくもないが、寿命としては
限界である。生きればいいというものではなく、自らに課したテ
ーマガ追求できなければ生きている意味もない。テーマというか
らには守銭奴となって金を貯める、も別に全否定はしないが、そ
れは自分探しの旅ではない、ことは明らかだ。やはり基本、内面
的な意味でのテーマでなければならない。誰しも、まず二桁の数
の人生である。これは非常に短い、束の間ですらないないが、そ
の瞬間のような人生で受ける苦しみは不相応に莫大なものだ。無
論、個人差は大きいとしても。だあ災難に振り回されて生きただ
けでは、また意味があるまい。災難をなんとか処置して、自らの
テーマ、目標を地道にこなすしかない。次の瞬間、死が訪れよう
と、格好をつけるわけではなく、それ以外、なにもないからであ
る。

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