志賀直哉『和解』徹底した高姿勢を貫く、だが私小説ですらない「単なる報告書」ではないのか?

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 確かに昔から『和解』は志賀直哉の代表作の一つとされる。
かって「新潮文庫」だったか、『和解』に挑戦、だが何か、
しっくりしない。これを小説と云うのか、自分のことを描い
ているのだから私小説としても、私小説らしい滋味は全く感
じられなかった。設定もどうも中学生では飲み込めなかった、
それも仕方なかったと思う。

 題材としては、実際のことをありのままに書いたと志賀直哉
、作者が言っているように、実父との不和が自然に和解に至る
までの経緯を書いたものだ。この作品の執筆動機を作者はこう
書いている。

 「あれは親子関係の道徳問題を主題として書かれたものでは
なく、もっ直接的な感情、ながいながい不和の後に漸く来た和
解の喜び、それがあの作品の動因となって書かれたものである。
或る主題をとらえて作された作物ではなく、もっと直接的な動
因によって作者が追い立てられた書いた作物である。そこに、
あの作に力があり、読者はそれに引き込まれていくのである」

 自信ありげである。

 年譜的には「大正六年、1917年、8月30日、父親と和解成る」
とある。この頃、ある雑誌との約束で別の小説を書きかけたが、
どうにも書けなかったようである。その苦境で

 「父との和解が気持ちよく出来、その喜びと興奮で、和解を
材料にして一気に書いてしまった。毎日平均十枚書いて、半月
で書き上げた。一晩だけ来客で夜書けなかった日もあったが、
うまく平均十枚となった。十枚平均で十五日というのは、私に
とっては前にも後にもないレコードだった」

 とある。これを私小説と云うなら典型である。実生活での解決
であって、小説と言ってその記録、あるいは報告書というような
ものだ。

  書き出しは墓参りである。「自分は墓参のため我孫子から久
しぶりに上京した。上野から麻布の家に電話をかけた。出てきた
女中に母を呼び出してもらった」

 我孫子は当時、志賀直哉が住んでいた土地で、麻布はその実家
である。麻布の家には不和だった父親も住んでいたわけだ。

 「これからは、どんなことがあっても、決してあいつの為には
涙はこぼれない」という父が人に語ったと聞いて、それも無理か
らぬと思いながら、「自分」と父親との不和は決定的なもんいな
った。一昨年の春、父の方から和解のきっかけをつくる目的で、
当時「自分」の住んでいた京都へ父が遊びに来た時、どうにも会
う気持ちになれず断った。結果、ますます父を怒らせる結果」に
なった。

 その年の十月、京都から我孫子の転居してから、妻と連れ立っ
て麻布の祖母を訪ねた時、継母のはからいで父に逢ったが、結果
は逆効果だった。昨年六月に長女が生まれた時、これが和解のき
かっけになるかと思ったが、その長女は生後まもなく死んでしま
った。埋葬などへの父の対応は、さらに「自分」を不快にした。
今年の七月、次女が生まれ、その頃から父への気持ちも徐々に
ほぐれていった。八月に実母の二十三回忌の墓参で上京し、久し
ぶりに会った父は、穏やかに迎えてくれた。それで「自分」も
気持ちがなごみ、おのずから和解できたのである。父も、叔父も
「自分」も、継母もみな泣いた。

 何が書かれているかといえば、たったこれだけの内容だろう。
だが魅力はない?でもないわけで、主人公が封建的な家族制度が
抜けない父親と対立し、苦しみながら、妥協はせず、屈服もしな
い。あくまで自分自身の流儀で解決できるような清潔な緊張感、
ハイテンションさが一種の魅力になっているのは事実だ。

 結構以上にわがままな主人公で、父と一目会って、不愉快にな
り、我孫子の家に帰ると妻が出迎え、「自分」が不機嫌な表情を
やわらげないので「何を怒っていらっしゃいますの?」という妻
の問いに「こういう時、お前のような奴と一緒にいるのは、独り
身のときよりよっぽど不愉快だ」と言い放って、妻を泣かせてし
まうのだ。

 でも、それほど父と不和になった、というくせに、その原因に
ついてはほぼ書いていない。ただ匂わせるのは「妻との結婚が父
との不和の最近の原因」という一行のみ。で、この点への批判に
作者は「不和の原因を少しも書かず、和解の効果を上げることが
出来たことをなぜ認めないのか」と言い切っている。おそるべき
自信である。正しいのは自分という徹底した高姿勢だ。

 それにしても、この作品、私小説ですらない、単なる高姿勢の
「報告書」ではないかと思えてならない。サイデンステッカーは
「この作品は感想文にすぎない」と書いているが、私は「報告書」
と云うべきだと思う。

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