差別小説としての芥川龍之介『毛利先生』、魯迅『藤野先生』との余りの落差

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 私は時々、芥川全集で比較的初期の作品、現代ものの『毛利
先生』を読むことがあるが、毎回、非常な後味の悪さを拭いき
れないのである。もちろん仙台医学専門学校に公費留学の魯迅
が解剖学の藤野先生を描くのと、芥川が旧制府立中学での英語
教師を描くのとは何から何まで大違いなのは当然として『藤野
先生』」がそこに真摯な師弟愛を描いて日中両国で愛読されて
いるという歴史的名作だが、芥川の『藤野先生』はいろんナエ
ソードを描きつつ、読後感は非常に後味が悪い、確かに吉田精
一の評するように「何よりも作者の心が憐れむべき老教師の心
にふれあっておらず、時代遅れの先生につとめて人間的な親愛
を努めて感じようとするが、作者は黒幕の陰で先生を嘲笑って
いるという風情は拭えない」この評には100%賛成する。秀意
意識の過剰な芥川はどうにもあの老英語教師を見下してしまう
、ということだろう。発表当時すぐに片山伸(のぶる)が「作者
の心が中学三年当時、毛利先生をいじめたときから、ほとんど
変わっていない気がする」と評しているのは実に的確である。
意外にこの作品を評価する者もいるが、どうにも心にヒヤリの
作者の高慢さを感じて仕方がない、感じのよくない作品である。
作者が毛利先生の「教育者としての資質に感歎している」とは
読後感で到底思えないのである。

 魯迅は『藤野先生』で冒頭からその滑稽な様相を述べている
が、、それが決して嘲りなどになっていない。「講義のノート」
の提出を藤野先生に求められて朱の添削されたノートを戻され
た魯迅は仰天した。その綿密緻密な訂正ぶりである。

 
 藤野先生の教室に姿を表したその模様は本当に印象深いも
ので見事に描かれている。

 「入ってきたのは色の黒い痩せた先生で、八の字ひげを生
やし、眼鏡を掛け、大小さまざまな書物を抱えて机上に置く
と、ゆっくろ頓挫のある口調で自己紹介を始めた『私が藤野
厳九郎というもので・・・・』後ろの席の方で、数人の学生
が笑い声を上げた、昨年からの留年生だった」

 魯迅は留年生から「列車で藤野先生はスリと思われて車掌
が乗客に注意するように云った」などというエピソードも教
えてくれた。

 魯迅が中途で仙台医専を退学する、それについての藤野先
生の無念の思い「惜別」と書いた別れの書、心にしみるもの
がある。だからこそ、『藤野先生』は永遠不滅の作品となり
得た。藤野先生は仙台医専をやめて、・・・・消息ははっき
りしなかった。魯迅宅を訪れた中国文学者の増田渉がそれを
伝えると魯迅は残念そうに「藤野先生は死んだのかも知れな
い」とつぶやいた、という。藤野先生の消息が判明したのは
魯迅の死後、日本で魯迅ブームが起きてからであり、藤野先
生は福井県で開業医を営んでいることが分かった。

 だが近年、と言うにしてもいかなり前のことだが芥川の『
毛利先生」を「差別小説」とする考えが発表された。

 「毛利先生」は「友人の批評家」が「自分」に語った中学
時代の英語教師のエピソードだ。1996年、山本芳明が「従来
の批評は大正期の社会を支えるイデオロギーと階級制度の存
在」という意識が欠落している、ことを指摘して新たな視点
での批評を行っている。」山本は「この作品に内在するのは
友人の批評家なる人物の同情を支える学歴による階級制度で
あり、それにまるで無自覚な語り手、作者、読者の感性であ
る」と述べている。この論文は作品に潜在する無意識化され
ているイデオロギーを暴く形となって刺激的ではある、

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