山本健吉『詩の自覚の歴史』1979(筑摩書房) 人麻呂、家持、釈迢空の三人をリレー形式で述べる
基本的には「万葉集」のある短い時代、天平10年(738年)
から天平勝宝5年(753年)まで、わずか15年間の文学史的な
考察で、大伴家持がさらに中心となる。短い期間のこと、
しかも大伴家持中心だがら狭くもあるが深い。
天平10年8月、秋なのであるが、右大臣橘諸兄の邸で饗宴
が催された。主賓の高橋安麻呂の和歌、二首は家持が代作し
たものと思われる。いたって儀礼的な挨拶の歌であったとい
う。だが、その後、天平16年、744年、正月に病弱な安積皇子
に献上された新春の賀宴でのとして家持は
たまきはるいのちは知らず松が枝を結ぶ情は長くとぞおも
ふ
という、ちょっと不吉さを漂わせる歌を詠んだ。ありきた
りの、いかにも標準的な和歌はもう作れなくなっていたのか
もしれない。さらにさらに天平勝宝5年、753年、2月
うらうらに照れる春日に雲雀あがり
こころかなしもひとりし思えば
この歌で歌人として頂点を極めたというべきか。前年はあの
大仏の開眼がなされていたのだ。家持が共同体の儀礼的な場面
での、社交的、呪術的な歌から真に普遍的な人の心の憂愁を歌
う詩人へとなったのである。単に集団への奉仕としての歌作か
ら、確立された個人の魂の詩人となった、・・・・・その進展
ぶりを示す本ではある。
ただそれだけなら、ある意味、当たり前な話と言えるが、山本
健吉は家持をまず例に引いて、多くの重層的な構造の記述を行っ
ているようだ。それは斉明天皇の代作者と思われる額田王、秦大
蔵造万里、中臣間人連老らを経て柿本人麻呂、それがついに後期
の大伴家持にいたる、万葉集前期の全体的な眺望である。著者は
、まずは家持の個人的な経歴、資質に見合うものを「万葉」の
初期から後期まで探っているが、また加えて、そのはるかな昔、
この国土に精霊が満ちていると信じられていたころ、古代の日本
人は呪歌をもって神々と交流し、その呪歌も徐々に洗練され、そ
れをとどめつつ、万葉において和歌となり、多くの和歌集を経て
明治以降、アララギに歌人へ、かれらら「万葉」の歌を写実主義
的に誤解し、その誤解を折口信夫が正すまでの日本における詩の
長い歴史、つまり人麻呂、家持、釈迢空という三人についてリレ
ー形式で述べられている。最後に、学者であり、詩人であり、批
評家でもある折口信夫によって日本文学、詩の流れがあるいみ、
完結した、ということのようだ。
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