中村光夫『谷崎潤一郎論』について。「生涯、子供のままの作家だった」と単純化、子供が妻を交換したり、『鍵』、『瘋癲老人日記』など書くだろうか?
谷崎潤一郎のイメージはどうだろうか。だが長男の潤一郎、
次男の精二はいいとして三男は和歌山の旅館の下足番、妹は
「母親に乳が出ない」という理由で親戚の農家に養子にやら
れた。妹は再婚もし、夫に従ってブラジルに移住した。三男
が下足番、これは石川達三が実際に見て驚愕している。「ま
さに谷崎精二先生と瓜二つだ」、妹は東京の近郊の農家にや
られた。妹は著書で「乳が出ないくらいで養子に出す家庭な
ど、どこにあるでしょうか」と怒りをぶちまけている。潤一
郎が一高時代、友人とその妹がやられた家に立ち寄った。「
養父が妹の学校の成績表を見せて自慢したら、潤一郎は皮肉
な笑いを浮かべ、『先生はお前を贔屓しているんじゃないか』
」妹は非常に不快な思いに襲われたという。
以上は導入だが、現実の高踏的、上流的、耽美的という
イメージ、・・・・・と考えていいのだろうか。
中村光夫、『谷崎潤一郎』はその代表的な評だろう。1952、
昭和27年の後半の刊行だ。例によって東大仏文だ。
谷崎潤一郎が『刺青』を発表して文壇に出たのは24歳の時
である。名作のほまれ高い『春琴抄』は1933年、昭和8年、47
歳のときである。細雪の完成は昭和23年である。その後は結構
、問題作もある。
中村は「大正期の作家の共通の特色はその異常な早熟と早老
にあります」と中村、例によっていやらしい「でします調」で
書いている。谷崎潤一郎の「不屈のしかも丹念なる精進」が、
このような大正期の作家に共通している「たやすく老い」やす
いという危機を見事に克服したというのだ。確かにそうだろう。
「批評家の務めは彼のような精進が、何故可能であったかを
問い。同時にその限界を究めることです」
この「谷崎潤一郎論」は、まずそれまでの作品を全般にわた
り、調べ上げ、そこに谷崎の思想のあり方を探り、それと同時
に、彼の生活や性格を論じ、そしれそれらの交渉に触れ、如何
にして『春琴抄』などの傑作が生まれるに至ったかを明らかに
しようとしている。実際、努力の結果の力作評論だ。
「彼の作品を通読してまず目に付くのは、彼の精神の中に、
その少年期がどんな根強で生き残っていたかということです。
彼は生涯を通じて或る意味で少年であったといってよいので、
幼年期への郷愁は彼の芸術の本質的なモチーフをなしています」
という。私から見れば勝手なもんだよ、と思うが、中村は美化
といえば美化である。
谷崎が関東大震災で関西に移住、「私の見た大阪及び大阪人」
という随筆を書いている。その中で谷崎はその過ごした幼年期
の東京下町の思い出を書いていることに、彼の本当の子供っぽ
さが」とあることを指摘、「手放しで子供時代の思い出を書く
ところが彼の本当の子供っぽさ」しかも谷崎が40歳代でこのよ
うな思い出を書いたところに「異常さ」があるという。私はこ
の中村の見方のほうが「異常」な気がしないでもない。
したがって谷崎の「私は甚だしいエゴイスト」を大人の表現
で修飾しているに過ぎないと中村はいう。また「女性の官能美
を描くに長じても、恋愛の詩人」ではなく、ある意味、恋愛不
能症であったのも「他人の存在を認めることが出来ない子供だ
ったから」というのだが、妻を交換とか最後の妻となった女性
へのプロポーズなど、「子供」とか「恋愛不能症」とよくぞ言
えたと思う。
谷崎の初期の作品には西洋崇拝が強く現れているが、それら
も、谷崎の「子供の心」から発したものだという。『痴人の愛』
は、この西洋崇拝の総決算だという。そこで谷崎は「青年期か
ら中年の終わりまで、彼の頭脳を支配していた西洋思想の影響
から脱して・・・・・・幼年期につながる本来の彼の姿に」帰
ることになった」谷崎にそもそも西洋思想へのそれほどの傾倒
があったのだろうか。幼年期とはいうが、妹などは養子にやら
れて泣きを見ているのだ。そんな結構な幼年期だったのか、
どうか。
谷崎は関西人の生活を描いた『蓼食う虫』などを書いたが、
関西に残る徳川期的なものに谷崎の「身上」に合わず、そこ
で戦国時代を題材とする『盲目物語』などか書かれるように
なった、と書いているがこれも的外れもいいところで、その
後も関西を舞台とした作品を数多く書いているわけで、ちょ
っと、である。だが、この時期の最高傑作は中村によれば
『春琴抄』だそうだ。『春琴抄』は『盲目物語』より後に書
かれた作品だが、時代設定は徳川末期であり、、どうも中村
の論述は世間知らず、というのかどうか。
そもそも谷崎をあまりに合理的に解釈しようというのが無
理というものであり、『春琴抄』も「佐助は自分さえ良けれ
ば、という意味でまだ子供だ」というのは笑えてしまう。
戦中から戦後の『細雪』は源氏物語の現代語訳を終えて、
現代に源氏の世界を、という谷崎の夢の実現だったと思う
が、『細雪」の3人の女性は「子供の世界から引き出され
ておらず」彼女の心は「依然として子どものまま」何が正
確な解釈かしらないが、何でも「子供」といって解釈はど
うか。
中村のこの谷崎論は非常に明快だが、あまりに現実離れ
の的はずれな愚論と思えてならない。論の中のすべての考
えが同じ決めつけの繰り返しのようだ。なんというか、も
っと「常識」をもって論じてほしかった気がする。
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