里見弴『羽左衛門伝説』,十五世市村羽左衛門その出生の秘密に断を下す。やや贔屓の引き倒しだが、感動の内容

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 初版は1955年、昭和30年である。里見弴の会心の作だろう。
十五世市村羽左衛門こと、本名録太郎の出生については本人は
一貫して固く口を閉ざしていたが、二説があった。彼が坂東家
橘の養子であったのは周知の事実、だが実の両親は下谷西町の
箔(はく)家、和田家の養子、原田孝次郎とその妻、横浜の車宿
の娘の直(なお)、これがA説。ではB説はというと、明治初年に
外務省顧問を務め、明治七年、1974年の台湾の役で勲功を立て
て明治天皇(大室寅之祐ともいわれる)の信任の厚かったル・ジャ
ンドル、その日本名、李仙得とその妻、越前公松平春獄の落胤、
池田糸であるという。落胤とはこの場合、私生児、である。糸
は芸者だった。

 里見弴がル・ジャンドルと糸(旧字体は絲)との間に生まれた
関屋愛子によって提供された多くの証言、資料によってB説の
正しさをほぼ証明したという内容だ。

 ならなぜA説が生まれたのかだが、フランス人であり、のちに
アメリカに帰化したル・ジャンドル将軍の人物に傾倒し、何とし
てもル・ジャンドル将軍を日本にとどめてたいと熱望した副島種
臣は、そのために女性を利用することを策し、当時、深川で芸者
をしていた十八歳の池田絲に将軍の目が止まったことから、絲を
強引に説得し、将軍と結婚させることとした。

 そのとき絲が説得役の副島種臣、大隈重信、陸奥宗光の三人に
向かって言ったことは、

 「皇国のためとの御教訓に従い、外国の御方様に、妻として仕
え、かしずきはいたしますが、かねて申し上げた如く、後日、将
軍が首尾よく日本政府の御用を果たされました暁には、自然、私
の務めも終わりますことゆえ、日本婦女子としての自殺をお許し
くださるよう、重ねて皆様方にお約束いただきたく存じます」

 「これには明治の利け者の三人、暗涙を呑み込んで、承知の旨、
固く言葉をつがえたという」

 このような事情で絲は明治5年、1872年の暮か、翌年早々にル・
ジャンドル将軍、別名、李仙得に嫁して小石川指ケ谷町一番地の
、俗に言う「椿御殿」に住むことになった。

 間もなく絲は懐妊、もし男児が生まれたら、まずこれを刺して、
すぐに自分を後を追うとのかねての覚悟なれども、実際に生まれ
た男児を見たら愛情が湧いてそうとはならず。三日後にかねて頼
んでいた旧知の和田家の直、つまりA説の母親に秘密厳守の約束で
この子を引き取ってもらった。将軍は「子供はどこだ、取り戻し
なさい」とか、・・・・・は終生、言わなかったという。

 夫としての李将軍は人格高潔、愛情深く、まことに理想的な人物
であり、絲花に不自由なく好きな遊芸にいそしみつつ、平和な生活
を送っていた。そして夫を異邦人と疎む気持ちも失せていった。絲
はまことに芝居好きで、坂東家橘の妻、市村とみ、とも親しく、家
橘の養子「竹松」が団十郎の『助六』の舞台に鉄棒引で舞台に出た
姿を見て、人目で紛うことなくわが子と見抜き、市村とみに何処か
ら竹松を貰ってきたのか、と聞いて、そのとき初めて直の名が持ち
出され、「さては、いよいよ、わが子と極まった」とあいなった。

 それから竹松が御殿に遊びに来て、絲の寵愛を受けるようになり、
やがて竹松が24歳、妹の愛子が18歳になった五月に、絲は二人に対
し、二人が兄妹であることを明らかにした。これは無論、愛子の証
言である。それが明治30年、1897年だったという。

 その年の秋、当時、韓国政府顧問でソウルにいた李将軍が帰国し、
録太郎と愛子を呼び寄せ、

 「今後とも一家団欒は望みにくい事情ゆえ、せめて半日だけでも、
私達に存分に甘えてくれ。誰憚らず、兄妹の睦まじ合いもこの場限
りだ。明日からは、また元の他人に戻って、生涯、ひと目に見破ら
れることのないよう、軽率は慎んでくれ」

 と言ったそうだ。

 「うまい歌舞伎役者ではなかったが、良い歌舞伎役者」と言われる
市村羽左衛門、絶世の美男子であり、明朗闊達、暗い影は微塵もなく、
自らの出生は父の言いつけどおり、生涯、秘密を守り通した。その後、
晴れて絲、愛子に親しめることはなかった悲劇を、心からの同情をも
って哀切を込めて里見弴は描いている。李将軍の隠れた功績、みごと
な人間性、絲の日本女性としての比類ない見事さ、羽左衛門がそのよ
うな優れた両親から生まれたことをこの本で里見弴は明らかにした。
同時に、この名優への敬慕と愛情を披露もしている。まさによく調べ
、また材料から想像力も自由に働かせた、いうならば里見弴好みの
羽左衛門像を描ききっている。里見弴の代表作たるを失わないが、や
や贔屓の引き倒しも無きにしもあらずかなと思えるが、それは里見弴
の魅力というものにも通じているだろう。


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