芥川龍之介の三大愚作、私は『芋粥』、『毛利先生』、『枯野抄』を挙げたい
もう半世紀以上、角川版の『芥龍之介全集』を読んで、どう
にも、好ましからざる印象を受ける作品がある。別に出来不出
来ではなく、といって出来は良くはないが、心底で邪心が見え
すいていて不快に感じる作品ということだ。
『芋粥』、『枯野抄』は著名な作品であり、『毛利先生』は
あまり知られていないだろう。『芋粥』は芥川の今昔者傑作で
その代表作という評価が定着しているようだ。・・・・・実は
換骨奪胎の要素はなく、端的に言うならば原典の現代語訳に等
しい。その意味で評価の低い、えらく低い『好色』こそ今昔も
の、というのか王朝物の傑作と断ずるわけである。
さらに『枯野抄』は、江戸時代の徘徊、芭蕉に通じた芥川が
真摯に人間を描く、探求するという姿勢に乏しく、最後の文章
で「してやったり」の風情はいただけない。
「毛利先生」は旧制中学のある老年の英語教師を描いている
が、ここでも心底で小バカにしている様子、それは中学生時代
からのものだろうが、それがそのまま維持されていてこのよう
な作品になった、というわけで、後味の悪さでは定評がある。
では『芋粥』から述べるが、芥川のごく初期の作品、今昔に
題材をとったものだが、その前に『偸盗』に手を付けていたと
いうが、それが容易に仕上がりそうにもないので急遽、『芋粥』
である。それが結果として思いの外、高評価、漱石もすぐに読
んでくれたのだから恵まれている。
しかし芥川ほど当時、今昔を読み込んだ人間も当時いない。
漱石だって読んでいない、内心、芥川は「世間はチョロイ」と
思ったのではないか。漱石の評は「前半はtoo laboured」くど
くど書きすぎているが後半はすっっきりしていい、というのだ。
物語自体はシンプルでナイーブが取り柄なのに、ベタ塗りの蒔
絵を施しすぎたという。何度もいうと漱石は今昔は読んでいな
い。これは芥川が苦心惨憺厚化粧の部分はつまらなくて、原典
そのままの部分がいい、ということである。これでは今昔物語
の傑出性は証明されても、芥川の高評価も要は原典のお陰とい
うことでしかない。
村松梢風は、芥川の初期の王朝もの、今昔ものは『羅生門』
、『鼻』、『芋粥』はすべて原典そのままでしかなく、そこに
わずかな現代的解釈を加えたに過ぎない。端的に言えば、創作
とも言い難いものだ。だがそれを創作と思わしめたのは文章力
であった、と述べている。『鼻』について漱石が褒めたのも要
は原典の良さであり、芥川の創作ではない。
「この英文学の大家(漱石)も今昔物語はよんでいいなかっ
たと解釈のほかはなく、この手紙を貰ったときの芥川の一抹の
くすぐったいような顔つきも想像される。邪推すれば『世間く
みしやすし』と思っただろう」
こうした松村の見方は『芋粥』にこそ、最も適合するだろう。
『枯野抄』だ。これは南部修太郎が「三田文學」第九巻第十一
号に寄せた批評が有益である。
「この作品は芥川氏在来の作品に比べれば労作とも傑作とも
言い難い。だが私は芥川氏の頭脳の良さに敬服させられた。とに
かく臨終の芭蕉を描きながら、それを中心として動いていく門弟
達各自のそれぞれの心境を細かく鋭く解剖して見せている筆の冴
え、で名文というなら名文だろう。それに加うるにその折の周囲
の情景を簡潔に叙して、僅か十三頁の短編に収めたるところ、冗
長弛緩の作品多きこの頃、けだし並の冴えではない。巧妙なる曲
芸者に感嘆するというが、芥川氏の作品を読む時、これと相似の
感じを覚える。
しかも『「悲歎限りなき」門弟たちに囲まれたまま、溘然とし
て属こうについたのである』との最後の一句を読み終わった時、
私はあたかも眼前にその曲芸者が入神の技を演じきって、観客に
向かってにやりと笑うが如きていの笑いを芥川氏が浮かべている
、その顔が彷彿とされる。この最後の一句は、作全体では、単な
る結句でも、わざわざ『花屋日記』から「悲歎限りなき」という
一句を抜き取って反語的に添えたところは芥川らしい。
だが私が抱いた疑問は、内容についてが重要だ。芥川氏はこの
透明にして氷の如き理知の初産である弟子たち心理の巧緻な表現、
描写、鋭利な解剖、要するに、それは芥川氏がある限られた窓か
ら人間を眺めようとする一つの趣味以上のものではないのではな
いか。なるほど、作者の観賞の態度は自由だろう。だが芥川氏に
眺められたこの弟子たちをもし生きた人間として捉えるなら、
私はどうしても芥川氏の観賞の態度に頷くことは出来ないのだ。
人間は決してそのようには生きない。なぜ芥川氏は全人格的に
彼らを見ようとしないのか、という不満である・・・・・いかに
鋭く描写されようと、本当の人間性として私を動かすようなもの
は見いだせない。これは文学というより該博な知識を活かしての
教養人の高等落語というべきもので、文学の名に値しないと云う
しかあるまい」
この南部修太郎の批評に『枯野抄』の致命的欠陥が述べられて
いる。
『毛利先生』旧制中学の英語教師を綴って表向きペーソスをた
たえて懐古しているようだが、「旧制中学時代の蔑視がそのまま
続いているようだ」との批評通り、読後感が非常に不愉快な点で
、芥川の最悪作品といって過言ではない。魯迅の『藤野先生』、
またイギリス人作家の「チップス先生、さようなら」と非常に
著名な作品と比べ、あまりに、ひどい。「もって生まれた教育者
の資質に敬服した」というのが、全く本心は別にあるとしか思え
ない筆致だ。この愛すべき先生を心底小バカにしている心情をど
うすることもできない、という欠陥が露呈している。芥川はやは
り皮肉屋で、このような作品には向いていなかった、とも言える。
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