内田百閒『いささ村竹』1951,随筆集だが、ざっくばらんな風格、さすが百閒先生
内田百間、というかどうも先生を付けないと落ち着きが悪い
ので百間先生という。なぜ多くの作家を論じる場合、内田百間
だけ、まあ、だけでもないにせよ、「先生」と付けるのか、
軍大学かのドイツ語教官だったから?でも大学で語学の教師だ
った作家はいくらでもいるだろう。別にとりたてて小説を書い
たようにも思えない。でも『冥土』は『夢十話』の影響を受け
た小説なんだろう、でも結局、大半は随筆、随想というべき作
品だろうか。この本は昭和31年に筑摩書房から出た随筆集だ。
表題作『いささ村竹』は百鬼園随筆と合わせて、旺文社文庫で
刊行されていた。『阿房列車』シリーズは国鉄勤務だった中村
武志の随伴での国鉄での旅、ちょっと他愛ない気もするが。
さて、『百鬼園随筆』は戦前、昭和8,9年、1933年、1934年の
刊行(正と続)だが昭和31年、1956年の随筆集、古書で入手可能だ。
だが『百鬼園随筆』は戦前の大ベストセラーだった。
長短、二十二篇の随筆である。『黒い緋鯉』はなくなった豊島
与志男の思い出話、二人が海軍機関学校の教官だった頃、横須賀
に通っていたことの話だ。
豊島与志雄はしょっちゅう欠勤したが、しっかり欠勤届は出し
ていた。百間先生はめったに休まなかった。が、汽車に乗り遅れ、
よく遅刻はした。汽車に遅れそうになったら百閒先生は自動車で
汽車を品川まで追いかけでも間に合わず、それでも欠勤の電報を
打つ気に馴れなかった。軍人の学校で遅刻は欠勤より悪かったそ
うだ。査定というか、評価は豊島のほうが上だったという。二人
は同じ汽車でも、議論をしたこともなく、一つの話題で話し込ん
だこともなく、「ただ何となく、隣り合わせて、六年間同じ道を
行ったり来たり」でも結構長い期間、あの海軍機関学校に勤務だ
った。嘱託教官である。豊島は百閒先生に二つのことを教えたと
いう。
それは黒い錦鯉を豊島の勧めるままに、その自宅まで見に行っ
た。で大いに感心したという。かくて自分の池にも百を超える錦
鯉を放ったという話を別の随筆で書いている。それと「金貸しか
ら金を借りること」を教えてくれたそづあ。「借金修行の最高の
高利貸しを紹介してくれた」という。陸軍軍属上がりの金貸しだ
った。
でも百閒先生の随筆にはお金の話が多い。「寄る年波では、先
は知れている。しかしながら、人間はこの世に生を享けたからに
は、生きていかねばならない。・・・・・・それには摂生をここ
ろがけねばならない。何より、一番、体の毒になるのはお金の心
配をすることだ」といいながら、百閒先生はあまり実際にお金の
心配もしていないようだ。あの年金がつく、芸術院会員への入会
要請も「いやだからいやだよ」で断ったくらいだし。
でも、思うに、何か、百間先生は神秘的なまでに高く評価され
ている。業績は、小説はほぼなく、随筆である。ユーモアという
のか、どうか。
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