極説、遂に悟った「人生は内容ではない、生きることそれ自体だ、生きさえすればいい」、私が早く100歳になりたいわけ
なぜ私は早く、まあ、それほど急くわけでもないが、100歳
になるのが実は最大の夢である。もっとも、いつぽっくりいっ
て何の不思議もない私がそう云うのだから、まことに当ても何
もあったものではないが、気持ちとしたた100歳になるのが最大
の夢である。
ずっと半ば信じてきた、「人生は長さではない、内容、密度
だ」という考え、は今となってはこれぞ空虚な思い込みだと徐
々にわかってきた思いがする。これは、つまるところ私の生き
ザマが反映している。人生はとにかく生き抜くことにこそ、真
の意味があるということだ。密度、内容と云うのは人生の未経
験のなせるわざだ。人生は徹底して無内容でいい、栄光の真逆
の汚辱でいい。栄光も汚辱も生きる本質とは無関係ということ
である。人生の真の価値は生きることそれ自体、というと、無
為無能を極めた人間の犬の遠吠えの言い草にしか聞こえないだ
ろうが、・・・・・だは世間の常識、「人生の価値はその内容」
に潜む、あまりの空しさだ。生きることの価値は生きることだ
けにしか存在しない、存在のしようがないのだ。人生の中身を
とやかく云ってある種のランクづけしかしない価値観こそ、真
に唾棄すべきものだろう。
別にカミュの「不条理の哲学」やらドストエフスキーの「地下
室の手記」の実存哲学!を持ち出す必要は毛頭ない。そんな哲学
めいた考えこそ、これまた無意味なものでしかない。人生はただ
それ自体にある、美醜でも内容でも密度でもない、ただ、生きる
こと、生きさえすればいいのだ。
100歳到達、別に100歳でなくてもいいのだが、とにっかう長く
生きればそのこと自体が最大の充実感である。
100歳ならもう先はほとんど短いから、生の重圧をすぐ免れる
という安堵感、しかも十分生きて後の安堵感はまた格別という
ものだ。だから「若さ」はいいかといえば、人生のプレッシャに
ただただ押しつぶされ、懊悩は際限もない。その点1100歳は満足
感と同時に人生の余計なプレッシャから縁を切ることがすぐ近い、
という幸福さである。
私も余計に悩みすぎた、くだらない災難ばかり襲来してその対
応だけで人生が無内容に過ぎてしまった、無為無能を極めたとい
う悔しい思い、もそれこそが実は幸福だったことに気がついたの
である。半端な無能じゃ意味がない。とことん人生が無内容にな
ることが実は人生を救う、と思い知った。人生に内容や密度を求
ねるほどバカなことはない、明日がある保証もない人間だから、
そりゃ分からない、寿命なんて、まして重篤な持病を持つ私であ
る。だから。人生に内容の価値の追求ほどむなしいものはない、
と悟ったのである。ただ、生きて時間を重ねる、残り時間の短さ
を堪能できるほど無為に生きる。これこそが人生というものであ
る、とイヤでも悟らざるを得ないのである。
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