最終結論:川端康成の自殺の原因は何だったのか?三島死後も稲垣足穂の川端康成への痛罵、「中身は何もない人だ」
いまもっって「表向き」誤った事実が述べられている。その
典型が「川端康成と三島由紀夫は師弟関係にあった」、である。
最初、三島由紀夫は現実に文壇処世術の必要もあり、川端との
蜜月を装っていた。装っていたが三島もバカではない、その本
質はたしかに見抜いていた。だが処世術として出版社などへの
発言はリップサービスであった。心底、三島が心酔していたの
は、国内の作家では稲垣足穂であった。それな年月を経るに従
い、その度合はエスカレートしていった。総監乱入自決の年、
1970年、その年に中央公論から刊行されたた「日本の文学」シ
リーズで「内田百間、稲垣足穂、牧野信一」三人集の巻。
その月報で三島由紀夫は澁澤龍彦と対談している。
「僕はもしかしたら、日本中の人から笑われる、とんでもな
いことをやるかもしれない。でも稲垣さんだけは僕を理解して
くれる、そう信じているんだ」
三島は稲垣足穂よりずっと年少なのに
「僕は生涯、稲垣さんと会わないと決めているんだ」
明らかに自決を意味はしている。
その前年、週刊文春で野坂昭如と稲垣足穂が対談している、
足穂の京都の住居を野坂が訪問した。
足穂「三島由紀夫は来る来る言うて全然来よらん、ワシに興行
師と呼ばれるんがこわいんや」
「川端なんて千代紙細工や」
「今東光は何の値打ちもない。坊主に毛が生えた程度や」
野坂「毛はないけどね」
この二つの対談は内容が呼応している。
三島の自決後、1971年6月の稲垣足穂の雑誌インタビュー
である。朝日新聞刊行の雑誌である。
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質問:一昨年、日本文学大賞を受賞されましたね、おれの
本がそんな売れるわけがない。読んでわかるわけがないと、
足穂:この頃の評論家の書いていることって、何を云ってい
るのかわからない。人格なんかないからですよ。代表的は石川
淳だ。二、三行くらいは面白い。結局、何をいいたいのかわか
らない。小林秀雄もそうだ、云うべきものもない、人格のカケ
アもないんだ。
バカばかりなんだよ、大学は教授とか、助教授とか、バカの
見本ばかりですよ。
純粋なものはいいですよ。曖昧なやつにロクなのはいない。
湯川秀樹なんて典型的なニセモノです。いざとなると態度を豹
変させるんだ。中途半端な男だ、梶原源太の逆櫓ですね。
こういうことは言えます。川端康成って、本当に内容が何も
ない男です。書を習っていて墨す、字を書いてますね。「誠」
なんて、ところが中身が何もないんだ。なんで日本人が川端康
成にひれ伏さねばならないんですか。なんで感謝しなければい
けないんですか。文化の愚劣とノーベル賞のインチキぶりを見
事に証明してくれましたよ。
質問:川端さんと今東光はグルなんですか?
足穂:「文芸時代」という雑誌があってね、入ってくれ、本が
売れるからって、でも今東光なんて文学青年に毛の生えくらいで、
もう毛はないが、すべてハッタリの芝居の男ですよ。いやな文士
です。中途半端なやつです。川端に寄生していきようとしていた。
恥を知れですよ。
質問:文壇を見渡していかが
足穂:本当にロクなのはいません。新聞小説、ツマラン内容で
荒稼ぎだよ「紅茶はいかがですか」で一行、「ワハハ」で一行。
原稿料だけが目当てだよ、会話は文学じゃない、日本だけですよ、
こんなニセモノだらけでそれを崇拝させられている国民なんて。
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文学を見抜く眼では文壇随一とされる神眼を持っていた稲垣
足穂は一貫して川端を全否定し、腰巾着の今東光を斬って捨てた。
「ノーベル文学賞」に舞い上がり、川端を崇拝一色のマスメディ
ア、また日本人、が足穂は常に川端批判を続けた。「あれほどの
内容がないニセ作家はいない」実は川端の多くの作品が代作とい
うことを足穂は知り尽くしていたのである。出版界の裏の事情、
についてもである。
川端は表向き三島の恩師、であったという「社会通念」がある。
これは三島にとってどこまでも実利があったからである。だが真
に醉心、崇拝したのは稲垣足穂である。その稲垣は川端を全否定
していた。代作だらけのニセ作家だと。「代作」は出版会社への
ダメージになるので足穂も「代作」とは口にしなかったが。
とにかく三島由紀夫の川端への憎悪は高まるばかりであった。
その空虚な名声への怒りでもある。未公開書簡だが三島は川端を
こき下ろしていた、という。むろん、表には出ない、特に新潮社
の圧迫は大きい、川端康成と、また三島由紀夫の世間的イメージ
を新潮社はとことん、「守り抜く」わけである。どこまでも「師弟
関係」美談は維持したいのである。三島の事件の年の8月に、三島
は知人に川端を「作家の呼ぶに値しない」と断言している。
川端のノーベル賞!受賞作『雪国』、であるが三島は「ツギハギ
だらけの駄作」と書簡でいい切っている。素人が読んでも、あの、
『雪国』のあまりのツギハギさは驚くだろうが「感心しなければな
らない」作品として有り難く読まされているわけである。
『雪国』は他の作品と同じく、出版編集部の手が大きく入ってい
る、他の作家に改作、修正を依頼するのである。これは睡眠薬に川
端がますます溺れた昭和20年後半から顕著になったのは周知の事実
である。むろん、戦前からの「少女小説」は全作、代作だったこと
は明らかで多くの女性作家が執筆している。
戦後は北条誠、また書生として同居していた石濱恒夫、また沢野
久雄が代作者の代表的存在であった。といって実際は川端の書いた
ものがプロの作家とはいい難いレベルで、結果として上述の人たち
がほぼ新作に近い書き直しをしていたというのだ。証言として北条
誠の家のお手伝いさんが自分の作品を書かねばならないのに、川端
の作品の依頼が入るので困ると北條が愚痴っていた、というのだ。
未亡人、瑤子さんの証言で三島は「あの人(川端)は今に制裁を
受けるよ」と言ったという。足穂への傾倒、心酔を思えば当然の発
言と言わねばならない。
既成マスコミの川端康成ノーベル賞受賞は絶賛一色だったが、裏
の事情を知る人達からあ、川端に多くの脅迫状、急迫電話は舞い込
んだ。それらが川端自殺の大きな要因となった、ただでさえ情緒不
安定な川端がさらに異常心理に追い込まれた、と瑤子未亡人が語っ
ていたという。
演劇関係者の間では川端への脅迫状は多くは村松剛が書いている、
という噂があった。三島同様、川端のあのザマに怒りでさらに「ノー
ベル賞」の欺瞞に激怒だったという。ただ筆跡でバレるので他人に
代筆させていた、という。
足穂のように堂々と川端全否定は表向きやらなかった三島は、や
はり日本文壇事情、出版界の現実を忖度したのだろうが、本音は
川端など文壇に救う詐欺師くらいに思っていたはずである。
三島自決の年、1970年以降、1971年から川端の奇怪な行動が目立
ち始めた。都知事選での秦野章支持、だが選挙事務所でも常に怯えた
ような顔でキョロキョロ、周囲を見回す。誰も気持ち悪がって近寄ら
なかったという。三島の亡霊に怯えていたともいう。夜中、ギャーと
叫ぶこともあった。もはやその精神は崩壊していた。
1972年4月の自殺、当然の結果であった。
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