大佛次郎『激流、若き日の渋沢栄一』大佛次郎をもってしても「人間・渋沢栄一」は描けず、青年期の経歴の羅列に終わる。
大佛次郎の昭和28年、1953年の作品である。日経に連載さ
れたものだから、渋沢栄一になったのかどうか。まことにも
って立志伝中の人物で経済人としての業績が圧倒的である。そ
れを大佛次郎が、ださい『偉人伝』に終わらないような文学性
もある作品に仕上げられているのかどうか。さすがの大佛次郎
になり得ているのかどうか。評伝ではなく小説なのである。
埼玉県血洗島村の名主の家に生まれた渋沢栄一、その22歳の
時からこの小説は始まる。栄一の従兄に尾高新五郎と長七郎と
いう兄弟がいる。栄一は隣村に住むこの兄弟から学問を習い、
思想上も教えを受けた。思想とは尊王攘夷思想である。
栄一は江戸に出て下谷の海保塾で漢学を習い、神田の千葉道
場で剣術を学んでいる間に、一橋家の用人、平岡円四郎の知遇
を受け、これが機会となって一橋家の当主、徳川慶喜の家来と
なる。田舎にいたときは尊王攘夷で血を沸かし、高崎城の焼き
討ち計画にも参加したが、偶然に徳川の幕臣的存在になったの
だ。で栄一は慶喜に従って京都に行く。その後、慶喜は徳川幕
府の最後の将軍となった。
幕府がパリの万博を機会に、フランス政府への幕府使節とし
て清水家の徳川昭武を派遣することになったとき、、栄一は
会計係りとしいぇ随行を命じられる。妻子を残して血洗島村の
家を出てから三年目である。徳川昭武がナポレオン三世に面会
し、その使命を遂行中に幕府が瓦解してしまった。フランス滞
在を早く切り上げて帰国すれば日本は明治政府の天下である。
そこで徳川慶喜は静岡に引き籠もっている。慶喜から栄一を
勘定組頭にするとの誘いがあったが、栄一はこれを断った。
「栄一がヨーロッパで見てきたものは、主人持ではなく、独
立自由の人間が、そこへ行っても見つかることであった。生き
ることは働くことであった。日本のように身分だけで人間が保
証されている特殊な世界は、全く滅び去る運命にあったものだ
し、今日のように瓦解を見たのは当然のことだったと言えるの
だ。主人はもう要らなかった。実にもう要らなかった。自分が
ひとりで歩く自由な人となって、広い世界に好む道を求めるこ
とだと思って、栄一は自分が嬉しかった」
実はこの文章でこの小説は終わっている。如何にも栄一は
幕府の瓦解を当然のものと予想し、明治の初年から自由独立の
自分の道を予想し、主人持ちをさえ否定しているかのようだ、
この直後に明治の役人となっているところを見たら、ちょっと
不純に思える。
日経に連載、渋沢栄一、作者は最初は本格的に人間としての
渋沢栄一を描こうとしたが、書き進めるうちに書くのは「人間
渋沢栄一」ではなく、実業家、渋沢栄一の若い時期の経歴を描
いてしまった。ついに文学になり得なかった。
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