「北朝鮮帰還事業(北送)」で「帰還」した9万3千人あまり、強制収容所に2万人以上が送られ、大半が収容所で死亡。恐怖の人間屠殺国家


 1959年12月10日に最初の北送(北朝鮮帰還事業)が新潟港を
出発、1984年頃まで続いたとされる。その総数は93000人、日
本人妻は1831人とされている。

 実は在日朝鮮人一世に就いて云えば98%は現在の韓国の出身
であり、北朝鮮への「帰還」は同じ民族の国への帰還にしても
故郷への帰還ではない。朝鮮半島北半分の北朝鮮はハゲ山ばか
りの山岳地域がほとんどで農業には全く向いていない。寒冷な
気候、不毛の土地、したがって食糧事情は基本的に悪い。鉱物
資源には比較的恵まれてはいる。

 その北朝鮮帰還、北送事業で北に送られた93000人、だが
結果として最低階層の「敵対階層」にほとんどが入れられた。
初期は中間の動揺階層に位置づけられたケースもあるが、徐々
に独裁国、北朝鮮で帰還者への警戒心が独裁者に高まったのは
否めない。

 北朝鮮の強制収容所については脱北者の証言、その本が1990
年代から刊行され始め、その恐るべき実態が明らかにされてい
る。管理所とよばれるが死ぬまで出えられない「完全統制区域」
と有期の年数で出られる可能性もある「革命化区域」がある。
「革命化区域」でも生きて出られるケースは5%前後とされてい
る。

 しかしおよそ理由にならぬ理由、独裁国の悪質なまさに「いい
がかり」で管理所送りなのである。だが、金日成(金聖柱)の
当初は「熱烈歓迎」も口先だけの外交辞令で、在日朝鮮人帰還
者たちは激しい差別にさらされ、勇躍帰還したはずの朝鮮総連
幹部、それらの多くが北朝鮮に多額の寄付を行って真面目に生
活していたにもかかわらず、片っ端から家族もろとも管理所に
送られた。さらに云えば日本人妻も多数が言いがかりで管理所、
(強制収容所)に送られた。朝鮮総連にそそのかされて一時帰
国の人さえ、強制収容所に送られたケースもある。また拉致被
害者も最低で十数名以上が管理所=強制収容所に送られたとさ
れる。脱北者の証言で明らかである。

 では北送事業、北への帰還事業で管理所=強制収容所(完全
統制区域、革命化区域)に放り込まれた人数はそれくらいだろ
うか。多額の寄付をなした朝鮮総連の多くの幹部さえ片っ端か
ら強制収容所送りか即刻処刑の憂き目を見ているのである。

 すべてで9万3千人が帰還したとされるが、数字での証言は
耀徳管理所、革命化区域に祖父母が京都の朝鮮総連幹部であ
ったにも関わらず放り込まれたカン・チョルファン氏の著書
によれば、

 「日本からの帰国者だけの居住区域である第十班村には私
がいた10年(1978~1987)の間に約5800人が送られてきた」

 とある。実際に耀徳強制収容所、革命化区域で成長した
カン・チョルファン氏の言明だけに信頼していいだろう。

 耀徳収容所に初めて在日朝鮮人帰還者が送られたのは1974
年だという。全体の強制収容所ではでは?だが耀徳強制収容所
は最も代表的だから帰還者が放り込まれ始めたのはその頃から
とみていい。あの永山一夫が帰還したのは1971年6月である。
上陸後直後のインタビュー以後、全く消息は不明である。

 帰還者の収容所送りが廃止された、という情報はないから、
耀徳収容所以外にも多くの強制収容所の存在を考えれば、帰還
者全体9万3千人で最低、2万人は強制収容所送りになったと推
定は妥当と思える。

 しかし、故郷でもなく親の故郷でもない北朝鮮に希望をもっ
て「帰還」(実質、北送)して何も咎もないのに屠殺場に続々
ぶち込まれ、生きてでられるケースは例外でしかない、あまり
と云えばあまりな話である。北への「帰還」は屠殺場送りでし
かなかったのに、絶賛した朝日などのオールドメディアの責任
も、また映画でも賛同を示したケース、地獄送りに加担した者
は国内に満ちていたのである。そもそも、なぜ多額の寄付まで
行って真面目に生きていた元朝鮮総連幹部、その家族が片っ端
から強制収容所送りになって日本の総連が毅然たる抗議をほぼ
行わなかったのか。総連の資金提供は北を支えていたはずであ
る。そこまでの狂気の独裁、差別社会だった北朝鮮なのである。

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