【地域の話題】玉島商業、2025年、秋の高校野球中国大会へ、1968年の中国大会優勝、翌年、甲子園春夏出場の再現?


 先週末、土日は京都に参りました。さすが外人観光客、特に
白人が目立つ。なにしろ体格がいい、単にサイズが大きいでな
く男女とも骨太感でごつい、肉づきがとにかくいい、男女とも
何だかプロレスラーのようだ。それを思えば、特に日本人女性
は小柄だ、これは逆に魅力だと思う。で新倉敷駅に帰ってくる
とさすがに静かだ、乗降客は実は結構いる。でも静寂な限り。

 さて、秋の高校野球、全国で府県、地区大会が行われている、
もう地区大会まで始まってはいなさそう。で岡山県、中国大会
には二校出場だが、準決勝で倉敷商業が岡山理大付にコールド
勝ち、また玉島商業は関西に勝利。最近は公立の商業高校に中
学の実力選手が入らない、岡山県も私立の勧誘、また県外から
の勧誘もあるので、これはちょっと古来の高校野球の雰囲気で
ある。

 なお1966年に旧倉敷市、玉島市、児島市などが合併して新倉
敷市が誕生、「新倉敷駅」は玉島にある。もちろん本来の名は
玉島駅であった。

 さて、玉島商業は戦前からの伝統がある。戦後は昭和30年代
のはじめか昭和20年代末に甲子園出場があった。で全国にその
名を轟かしたのが1969年、昭和44年の春、夏連続甲子園出場、
春は初戦、好投手、松村のいた徳島商業に勝利。だが二回戦で
博多工業に敗退。夏は勝利を重ねた。準決勝で太田幸司の三沢
に1-2で惜敗。ただ試合全体では勝機はなかったと感じた。最
後のバッターは藤九であった。玉島商、9回最後の攻撃、スコア
は0-2,2アウトでランナーはサード、ここでパスボールで
サードランナーはホームへ、だが塁からランナーは消えた、
零封は免れたが切ないホームインだった。応援席は「藤九、ホ
ームランを打てよ」と声援を送ったが空しかった。試合後の整
列で松枝投手の無念の表情が印象的だった。

 だが夏の甲子園から帰って悔しさを「国体優勝で晴らそう」
とすぐに猛練習、国体は惜しくも準優勝、優勝は松島投手の静
岡商業だった。優勝は果たせなかったが国体準優勝であるてい
どリベンジはできた。

 そこでエースの松枝、玉島商業は高校では類例があまりな
い球場を持っている?市営だが実質、玉島商業の専用球場とな
っている。1962年、岡山国体では軟式野球の会場になった。
松枝投手は中学時代、県大会での優勝投手であった。地元の、
というか実家は喫茶店、オスロといった。そこから専用球場ま
で徒歩2分以内という信じられない近さで、有史以来、これは
最も恵まれている練習場との距離だ。、それもあって玉島商業
に入学、相棒の川口捕手は鴨方から自転車通学だった。

 1969年、昭和44年、夏の甲子園大会で力投する松枝投手、サ
イドスローだった。大学は法政に、準エースとして活躍した。
大学卒業後は岡山に帰り、就職された。二歳年下の弟さんがお
られ、やはり玉島商業で野球をやられた。私とおない齢である。
実は松枝投手、松枝克幸さんは2022年9月11日に脳出血で逝去
された。享年71歳。そのとし、玉島の良寛荘で故人を偲ぶ会が
開かれた。https://www.tamashima.tv/channel/kawaraban/stream.php?num=9296

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 玉島球場、ほぼ玉島商業の専用球場

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 1968年、昭和43年の秋の中国大会は決勝で日高投手の広島商
業を撃破、優勝した。その試合、NHKのテレビ中継で見たが、
松枝投手、サイドスローで「球が伸びているな」と感じた。

 それから昭和49年、1974年、夏は意外な県大会優勝で甲子園
に。今井監督も「まさか、ここまで来るとは思わなかった」、
だがそれだけに盤石ではなく甲子園は向田の前橋工業にやや完
敗。

 ・・・・・・で中国大会、中国地方から二校だけである。
センバツ出場は決勝進出が実質、条件である。これは至難であ
る。もうチャレンジ精神で体当たりしかないわけだが、これだ
けでも復活宣言である。

この記事へのコメント

纐纈 晃
2025年10月01日 01:32
この大会、松山商が優勝したが、松山商井上投手は、準決勝の一方の組み合わせが三沢ー玉島商。三沢の太田は打てると思った。玉島商の技巧派エースの方がイヤだった。と述懐している。それにしても先生は週べや朝日の大会史にも載ってないような資料を持っていてすごいと思う。