無病という危険な思想

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 「病気は悪であり、だから日頃から病院で検査を受け、も
し病気になったら病院が病気を治してくれる」という具合に
現代人は叩き込まれ、あらゆる機会に叩き込まれる。私は今
まで生きて「病院が病気を治してくれる」という思い込みは
全く誤りだと考えている。

 そもそも人間は本質的に「病める存在」である。何かの拍子
に、とんでもない病気に罹ることも稀ではない。だが病気は、
云いうならば「生の証」というべきだ。近代医学の「進歩」に
人々は幻惑され、それは公教育からも、あらゆるメディアなど、
行政からも骨の髄まで信奉に導いていく。最近は「感染恐怖症」
が世界的な衆愚と洗脳の嵐となり、ついには「人工ウイルス」の
製造機に人間が仕立てあげられた。その新型コロナは分離精製さ
れたという確固たる証明はない。その挙句の社会的な珍事、また
マスク騒ぎが昔の児童小説「空気のなくなる日」を想起させるも
のだった。

 思うに病気とは人間文明と不即不離!のものである。それはさ
まざまな社会的現象、ひずみと軋みをもたらす。・・・・・医療
の背後には黒幕というものがある。

 近代医学は勝利した!のだろうか。芭蕉は痔疾に苦しみ、良寛
は直腸がん(推定」、一茶は脳卒中で苦しみ、こう書いている。
「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。死ぬるときには死ぬ
がよく候」とある。

 その昔は病む者は隣にいて共同体の中で苦しみを分かち合い、
語り継ぎ、祈った。だが現在は病院に隔離されてしまう。だが、い
かなる病気でも治すのは最終的に自分自身の体の中の自然である」
ヒポクラテスはいう「病気は自然の経過である」のだ。

 そこで古来の一病息災、病気があると人は自然と対話する。また
一つの病気があると他の病気を防ぐのである。過剰な検査、すぐに
病院に行って無病を目指す、あるいは病気を病院に治してもらおう、
という思想は危険な思想である。人間の傲慢さは自然の必ずシッペ
返しを受ける。医学への信奉、国家の至上命令にように無病の探求
と感染恐怖、病気こそは人を救う何かを持っている。

 私は難病を15歳ころに罹患、半日一生のような気分を半世紀をは
るかに超えて続けてきた。その中での自然に生かされる自分を見出
した、ということである。むろん、今日の命も何の保証もない、の
が私である。だからこそ生きてこれた、というべきか。

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