尾崎士郎『厭世立志伝』1957,自伝的小説で「魂の彷徨」の物語で非常に参考になる
あらすじから云うと、足助(あすけ)一次郎は、一右衛門と
お由の三男として吉良村に生まれた。あの吉良の領地である。
祖父の長右衛門は村の侠客で、賭博の旦那衆であった。煙草の
製造権をお上に返上してからは、足助一族は山林と土地だけで
生活してきた。しかし一右衛門だけが土地売買や、当時、多く
なされていた繭の仲買に手を出して失敗してからは、吉良村に
設置された郵便局の局長となった。明治35年、1902年、一次郎
が五歳になった頃であった。
一次郎の幼年期の思い出はとぎれとぎれで、影のような物の
形や、人の声が多少、残っているだけである。
就学前に百人一首を暗記し、新聞も読めて神童という噂もな
された。日露戦争の景気に浮かれて失敗した父の借金の交換条
件として、一次郎は横浜で医者を開業していた叔父(母の兄)
の家に養子としてやられたが、それも長くは続かなかった。実
家に送り返されて、そこで急に年を取ったような父親を発見し、
家計の苦しさもわかってきて五年が過ぎ、一次郎は岡崎中学の
一年となっていた。
父の病気、叔父の発狂と死、次いで父の死と家族の状況が激
変したが、徐々に大人になりかけた一次郎は、せかせかした思
いに駆り立てられるうちに、中学時代は過ぎてしまった。上京
し、早稲田大学に入った翌年、父の後を継いで郵便局長となっ
ていた長兄が自殺した。官金消費という罪名で、家財は執行員
によって差し押さえされた。吉良村の豪族として十数代も続い
た足助家は没落してしまった。一次郎が22歳の時であった。
再度、上京して苦学生となった一次郎は懸賞の短編小説に入
選し、それが機縁となって改進社の山本春彦から長編の依頼を
受けた。その原稿料を懐にして、単身、中国にわたり、上海で
放浪文化人の間にあって生活した。
上海から帰って間もなく、彼は新聞の懸賞小説に一位となっ
て入選の藤枝美江(宇野千代」と出会い、この小説では書いて
ないが宇野千代の回顧談では北海道に渡る船を待つ間、手と手
が触れ合った瞬間、二人は倒れこんで懇ろになったという。美
江は北海道にいる夫と別れ、一次郎と同棲する、・・・・
とまあ、自伝ということだが「粉飾と、誇張したポーズをは
ぎとった生地のままの自分をさらけ出そうとした」ことこまか
な自伝小説で、「人生劇場」ほど沸き上がるものはないが、そ
れは仕方がない話である。
才能ある少年が、明確な目的を持たず、その時その時で場当
足り的な生活を続ける、それを著者は「魂の彷徨」というが、
虚無的な心情であるともい。「厭世」に込められた真情である。
右端が尾崎士郎、その横が宇野千代
この記事へのコメント