椎名麟三『自由の彼方で』1954,暗い青春の放浪、深刻そうな内容だが淡々すぎて魂が骨抜き
椎名麟三、1911年、明治44年、現在の姫路の生まれ、姫路中
学を三年で退学、家を出て出前持ち、見習いコックなど転々、
独学で専検に合格、1928年、昭和3年、現在の山陽電鉄に入り、
マルクス主義に傾倒、労働運動に、さらに共産党に入党したが
1931年、昭和6年に検挙入獄、その間にニーチェを読んで思想
の転向、出所後、新潟鉄工工員となり、その頃から文学への関
心を深めていった。昭和16年、退職して文学に専念した。昭和
22年、『深夜の酒宴』で認められ、実存主義的傾向から「日本
のサルトル」とも言われていた。
作品は自伝的だが、そのままではない、年齢など異なる。
大正5年、1911年、数え年16歳で山田清作は田舎の母の許か
ら大阪の父の家に行ったが、間もなくそこも飛び出し、野宿し
やり天王寺の無料宿泊所、商店の小僧、出前持ち、コック見習
い、さらに不良少年の仲間入りとなった。この小説は一年後、
彼が中里のに西洋料理店専門の食堂にいた時から始まる。
見習いとして一日中、ジャガイモや玉ねぎを剥いでいた清作
はコックの内村に付いてこの店から逃げ出し、大洋軒というカ
フェーで働くようになった。そこにいた美代子という店のナン
バーワンの美女に魅せられた清作は早稲田の講義録を取り寄せ、
勉強し、ピアノも習って一人前のコックになろうと真面目に働
いた。すべて美代子のためであった。
だがそれはしょせんは報われぬ恋心であり、清作は転々と職
場を変えた。いつの間にか「意識的に自分の血と死を、相手の
自由を奪う手段にする」ようになっていった。
ある日、新聞で母の自殺未遂の記事を読み、急いで須磨に帰
り、方面委員の斡旋で神姫電鉄の車掌となった。会社貸与の制
服、制帽で身を固めているが、強制的に課される残業などで
疲労困憊で、中里の生活とあまり変わらない。三か月も経たな
いうちに清作は競馬やマージャン仲間に加わり、遊郭への通う
ようになった。
だが自分の不合理なすさんだ生活が無意味に思えてきて、彼
は急に共産党に入ろうと思った。もちろん、共産主義のドグマ
は知らないし、ただの新米の党員が何をやるのかもわからない。
結果的に女へのめりこんだ。すぐに共鳴者も見つけ、それが縁
で職場ニュースをを発行し、全協の交通労組に加入した。活動
方針の指令を受けるようになった清作は治安維持法の存在を知
った。
姫路を中心に共産党員が検挙され始め、清作は逃走を企て、
大阪にしばらくいて次に東京に向かった。だが間もなく検挙
され、神戸に送られた。公判廷で「人間は将来のことに確言
はできない」と云う清作は「改悛の情なし」と認定され、四
年の懲役刑を受けるが執行猶予が付いた。警察の世話で姫路
のマッチ工場で働き始めるが、警察を「自分の人間性を預け
ているような銀行」みたいに考え、その権力をも利用し、悪
徳の工場主を恐喝、東京に出る。
そこえ物語は終わる。自伝そのものではないが、まぎれも
なくほぼ自伝である。多少変えている部分が目立つ。
椎名麟三はこの主人公を「消え去った僕の死体」と呼んで
いる。時代的は昭和8年、年齢は22歳で終わっている。
実に高揚感もなくけれんみなく描き出して、結果は全くの
骨抜き小説である。魂の骨抜きというべきか。自由とか死と
か絶望とか、深刻なことが繰り返し出てくるのに、全体の印
象は平面的すぎる。時代を描くにせよ、、なんだか主人公の
極端に言えば一人芝居のようだ。暗い青春放浪から解放され、
キリスト教に精神の安息を得た、と「あとがき」にある。何
か、これでいいのか?と思える。
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