棟方志功『板画の道』1956、板画とは何か?板画に魅入られた理由。何かわからない他力で出来上がる作品

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 1956年、棟方志功が『板画の道』、『板画の肌』の二冊の
著書を出している。ともに古書で入手できるが前者の方がや
や多く出回っているようだ。棟方志功、明治36年、1903年に
青森市に生まれ、大正13年、1924年に上京、当初は油絵でこ
れで昭和3年、1928年に板画を出品、以後、板画の道を歩ん
だ。

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 で、『板画の道』、棟方志功の板画を作成における態度、心
構え、自作品の成った経緯などを綴った随想集である。版画で
なく木質にこだわるコンセプトである。

 で棟方志功自身、板画の真骨頂をどう考えているのか?

 「板画は芸業の密度を神、知ろし召して始まる。・・・・・
真実の板画は業巾を繰り広げて行く天真爛漫なる芸執の此岸を
喝するるところに板画の真性が成る」

 これじゃ意味がよくわからないが以下なら分かる気がする。

 「板画というものは、私は素直なものから生まれてゆくとこ
ろに、その生命があると思います。自分の力からできるのでは
なく、他力的なものから出来るのが本当ではないかと思います」

 ざっと考えると、この本で棟方志功が語ることをせんじ詰め
ればこう要約できるのではないか。

 「板画は自分の力でなく、何かたっとい自分以外の力がふん
わりと宿って作られる」

 このモチーフは私は井上友一郎の短編『受胎』のモチーフと
共通する気がするのである。

 肉筆画のように、画家が会得したものが直接現れない。板画は
描くのが仕事ではない。肉筆らしさ、肉筆に近寄る仕事であって
はならないのである。下絵は描くにせよ、板刀が板木に切り込ま
れていくとき、下絵に描いたようには絶対にならない宿命がある。
下絵から離れて、おのずから「板が育っていく」、「懸命でなけ
ればならない最中ながら、その懸命さを忘れ」、自分がこうする
というのではなく、自分の精神を超えたところに連れていかれる。

 つまるとこと板画の妙味、魅力、美しさは自作ではなく、何か
自分のあずからない、不思議な芸術の神、によるもの、というこ
とだろう。ただ「板のありがたさ」に素直に連れていかれるもの
である。自分だけで板画をつくろうとしたら、いい作品はできな
い。下絵、彫り、摺りの三業が合大して、肉筆画とは異なる幅が
加わり、やわらかい、穏やかな線がうまれるのだ。

 しかも、ただ一枚の絵ではないから、それを楽しみ、喜びを多
くのひとに広げることが出来る。このような

 「素直な世界と幅の広さを生みに生む」板画の資質は日本人と
日本の国土をベースとする。やはり棟方志功の板画には仏教的な
思いが深く入り込んでいるとは感じる。作品も経典に取材したも
のが多い。それ以外の作品も、発想に仏教色が色濃い。祖母の信
仰の篤さが影響を与えたかもしれない。

 さらに棟方志功の名人気質、一途な激しさは鍛冶職人だった父
親の影響をも受けていると思える。有名なエピソードだが鍛冶を
手伝っていた少年の棟方志功が、焼けた鉄輪を拾う小ばさみを落
とした、父親は「手でつかめ」と怒鳴った、少年志功は手で高熱
の小ばさみを掴んだ。

 また板画は北国で育つ、との信念というか、持論がある。外よ
り内で仕事することが多い雪国の人が、おのずから養われた気質
と関連するのだろう。

 文章は時折、自分以外の何かによっての、お筆先めいた内容も
あって読みにくい感じはあるが、それも特異な効果を期せずして
もたらしている、のは板画と共通だろうか。










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