P・D・ジェイムズ『罪なき血』ミステリーを味わう前に苦さを味わう小説

 ダウンロード (89).jpg
 P・D・ジェイムズ、Jamees,1920~2014,,この小説を楽しむ
前に腹の底から苦渋に耐えなければならない。貧しい家の娘
が金持ち家庭の養女になり、成人し、その後、実の母を引き
取って幸福にくらす、とは少女小説にかっては多かったかも
しれない。だがこの作者は、凡庸陳腐な美談にとんでもない
毒を仕込んでいた。新しい大衆小説というべきか、裕福な養
父母の下で育った娘が、わが身の出自、何者なのかという疑
問にかられる。実の親を探す、だがそれが、いかに高くつく
か、それを教えてくれる小説だろうか。だが愉しく読める小
説とは思えない。まずその苦さに浸るしかない。

 フィリパ・ローズ・ポルフリーは18歳になったばかりの
賢明な娘で、大学入試に受かり、近くケンブリッジに通う
ことになっている。といいながらモーリス・ポルフリーの
養女である。モーリスは社会学者で初婚は伯爵の娘だった
が、彼女が交通事故で亡くなって、秘書と結婚した。

 養父母はフィリパに、お前は私生児だった、と教えた。
そのことから彼女は自分の母はぺニングトンのメイドで
出産後亡くなったために、父親が誰やら分からなくなった
のだろうと推測していた。養女になったのは8歳の時、それ
以前の記憶はまるでない。ただぺニングトンの館のバラ園
と図書室はかろうじて断片的に覚えている。天使をあしらっ
た豪勢な天井、広い部屋、本は支えきれないほど重かった。
幼い自分は父親に本を読んでもらった、のでなく読んで聞か
せていた。それゆえ彼女は、実父とは館を訪れた貴族だった
のではと思っていた。

 イギリスでは子供が養子になったとき、新たな出生証明書
が発行される。最初の出生証明書と新しい名前を結びつける
記録は戸籍登録長官によって極秘書類として保管される。だ
が1975年、法が改正され、成人した養子は、カウンセラーと
会ったのちに、最初の出生証明書の交付を求めることが出来
るようになった。実父母の名前を知ることが出来るのである。

 『罪なき血』 Innocent Bloodは「罪なき血」はフィリパ
がカウンセラーと面接する情景から始まる。役所の担当は知
性ある18歳の娘に、まずは父母に相談したら、親探しをする
にも仲介者を通じてのほうがいい、としきりに思いとどまら
せようとするが彼女の決意は変わらない。

 一週間後、フィリパは戸籍登録局から送られてきた出生証
明書を読む。ローズ・ダクトン、1960年5月22日、エセック
す州セブンキングス、バンクロフトからがずいぶん遠いが、
彼女はそれにこだわらなかった。朝食も摂らず家を出て駅に
つき、バンクロフト・ガーデンズに来た、しかし41番地の家
は留守である。彼女は隣の家に行き、マーティン・ダクトン
について知らないかと尋ね、両親はどういう人間であったか、
という実は残酷な情報を得た。

 マーティン・ダクトンは12歳で少女をレイプし、殺した男
で、9年前に刑務所で死んでいた。妻のメアリ・ダクトンはそ
の殺人は共犯者で、今は刑務所に入っている、がもうすぐ出
所するという。

 その夜、フィリパは養父母が出所したら、社会復帰の最初
の二か月、一緒に暮らすつもりだ、と宣言した。そして刑務
所の母に手紙を書く。「刑務所から釈放された後、行く当て
がないなら、私がケンブリッジに入るまで一緒にロンドンの
アパートで暮らしましょう、それ以上はダメです。私は、あ
なたのために生活を変えるつもりはありません。私は自分が
誰かということを知りたいんです」

 フィリパが母と面会する情景と対話は、実際、見事なもの
だ。母はスレンダーな魅力的な女性だった。フィリパは自分
の金髪がどちらに由来するのか、を知った。眼だけが違って
いた。灰色の目には、ひるんだような警戒と諦めの色がある。

 「あなた、私がやったこと、自分が養女に出された理由が
分かっている?」、「一応は知ってます。お父さんの犯罪の
ためですよね」

 それが最初のやり取りだった。母は二人の犯行について説
明し、それから母と庭を散歩した。そのあと、母は娘の提案
を受け入れた。

 講師れロンドンでの母と娘の生活が始まった。10日間のロ
ンドン見物、ショッピング、母は刑務所で書き記した殺人事
件の詳細を娘に渡す。だが娘がそれを読むのは、母のこれま
での衣類を捨てて過去を葬り去ってからである。10日たつと
二人は魚のフライとフレンチポテトの店に勤務することにな
った。期限付きの平和な生活を送った。

 だがメアリ・ダクトンには復讐を考える者もいた。娘が殺
されたスケイスである。地味な役人で彼女の出所が近くなる
と退職していた。スケイスは二人の住まいを突き止め、子殺
しの女が今味わっている幸福に激怒し、機会を狙った。だが
破局は思いもよらない形で訪れた。フィリパは過去について、
さらに恐ろしい事実を突きつけられるのだ。

 歴史的なイギリス推理小説はこの作品でその変質という
のか、転換が明らかではないか。明確さ、めいめいの役割
の明確さ、世界は秩序をもっている、犯人は悪に所属し、そ
れ以外の容疑者は悪に所属していない。名探偵の理性で解決
される。その古典的様式はここにおいてズタズタである。
 




この記事へのコメント