佐藤忠男『裸の日本人』1958、カッパブックス;実体験を通じての日本人への鋭い洞察。日本人の孤独、疎外を怖れる心理の源泉
佐藤忠男、うっかりすると都立高校数学教師でまた著名だ
った佐藤忠と私は最初、混同していたが、映画評論家として
名を成した、実はそれ以上の存在の佐藤忠男である。実質、
学歴はないに等しいのに文化功労者の栄誉まで与えられた、
長命だった。1930~2022、そのまだ初期といえる時期の。
20代での著書である。すでに鋭さを発揮している。
サブタイトルに「判官びいきの民族心理」とある。あの
時代、1958年、昭和33年当時の日本人の観察であるが、普
遍性があるのは言うまでもない。
日本人の生活態度は合理的ではない、封建的だとかという、
決まり切った紋切型の評価だけでは、日本人の精神生活に何
ら貢献しないという。
佐藤忠男はいかにも通常のルーティーンを経ていない。15
歳で予科練生として敗戦を迎えたという体験、その後、国鉄
に勤務したり転々と職を変え、映画評論家として認められる
までの人生行路、悪戦苦闘の体験を通しての日本人の本質、
ものの考え方を綴る、云うならば実感評論である。
著者の主張のかなめの部分は、現在(もちろん当時だが)
の日本人の精神的状態の中で、その本質と言えるのは日本人
の一人一人が持つひどい孤独感と他人との断絶状態、さらに
疎外感、それらに苦しむということだ。この状況は長い間の
日本人の社会的なあり方、人間関係の在り方によって形成さ
れてきたという、ことにその根源がある、という。
だから日本人は自分の才能を十分に発揮するのはひたすら
権威にすがり、権威者に認められ、情けをかけてもらって、
その結果でのし上がるしか道はない、ということが骨の髄ま
でしみ込んでいる。だから昔から不利な立場に置かれた者は、
もはや権威に向かって正当に自己の主張を行うことが出来な
い。逆に自分一人を卑下し、自虐に身をおくことで世間の同
情に浴しようとするマゾヒズムの精神的傾向を生んだ。
日本人の判官びいきの心理も、兄頼朝の圧迫で(多分」自
死に追い込まれた義経への同情となる。「みんな私が悪いん
ですから」のマゾヒズム心理が日本人の民族性となる。あら
ゆる分野で明らかである。
周囲との、また上司との、目上の者との、また友人関係が
疎遠となって孤立することを何より恐れる、他人の自分への
評価が死ぬほど気になる。ささいなものの言い方に神経質に
なる日本人の傾向は、古来変わらない。それは文学では独自
の情緒性になっているといえる。それは人間の感情が互いに
通じ合える共通の情緒性を分かち合う生活のすべてが、日本
社秋の人間関係では育たなかったからだ。
こういう考え方が、ものの見方が、佐藤忠男の体験を通じ
て、とくに映画、演劇のストーリーから引かれている豊富な
霊で脚色されながら綴られている。
でもせっかくの鋭いどい実感批評が、感受性が、映画など
からの妙な引用で逆に低次元に落ちかねない、のは事実だ。
最後の「背に腹は代えられない」は社会批評でなく映画評論
という感じを受ける。カッパブックスというシリーズの中の
本という制約も感じられる。が、二十代後半でのこの実感評
論、やはり並ではない。
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