1960年、最盛期の笠岡市の思い出、当時の人口72625人、現在41841人
いつの間にやら21世紀もどんどん過ぎて2025年、鬼が笑うが
来年は2026年、「あー、不本意に生きてしまったなぁ」という
慨嘆なわけだが、苦難続きでいい時期があまりない私にすれば
楽しい記憶は4、5歳ころまで東淀川駅近くの叔母夫婦のアパー
トで暮らした時期、さらに強いて言えば、でもないのだが小学
2年の二学期終了くらいまではまずまず幸福だった。それ以後、
は毒親の狂乱の被害を受け続け、ただ6年生の時は、全く不思議
だが全校の人気者?的存在となって周囲に人が寄ってきた、感
ジ、・・・・・あくまで例外的時期である。
だが印象的なこと、笠岡市の盛況である。人口の最盛期が調べ
べたら1960年の72625人、現在、2025年11月1日が41841人である
が、現在は決して少なくない外国人がカウントされている。本当
に私が小1の頃、当時は笠岡市の農村部、新山村というか、山口と
いう地区の祖母宅に夏休みに長期滞在し、昆虫採集や課題作成な
ど、まさに満喫の夏休みだった。それも小学2年までというべきだ
ったが。
だがあの頃、よく笠岡市にもよく連れて行ってもらった。祖母
の亭主が福山市で不動産業ををやっていて、これは福山市でも不
動産業の走りという存在だった。さすがにこの時期、福山市は笠
岡市より都会だったのは間違いないが、実は戦前、終戦のちょっ
と前を考えれば福山市より笠岡市のほうがある意味、格上であっ
た。維新後の廃藩置県で備中、備後で小田県が設置されたが県庁
は笠岡市だった。小田県庁跡という遺跡めいた場所がある。
何より井笠鉄道の絶頂の時期であった。いまは過疎の一語の
笠岡市の農村地域だが、あの頃は農村地域も子供の目では実に
賑やかだったと思う。子供も多かった。新山駅での乗降数も本
当に多かった。あの軽便鉄道がまずたいてい満員に近かった。
笠岡駅も現在の無人駅化から想像もできない賑わい、駅舎の
二階にはレストラン、食堂があった、カレーライスが美味しか
った。笠岡に出る、というのはちょっとした都会に出るという
趣があった。何より人口も多かった。「くじば」駅近くに、笠
岡高校、笠岡商業に二つの高校、また公民館のような建物があ
った。笠岡駅のホームからは「中国物産」の黒い倉庫が見えて
いた。笠岡市の飼料会社だった。
だが、すべては過ぎてしまった。井笠地区の人口減少は顕著
で雰囲気も、まったく寂れてしまっている。若い人が少ないし、
まして子供など滅多に見ない。笠岡高校も笠岡商業も工業も含
め、統合されるようだ。
帰らぬ時、遠い昔、である。
三笠博通画伯のかっての笠岡市の市街地の絵画、
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