荒正人『市民文学論』1955,おそるべき博識は分かるが、議論展開は性急に過ぎる
荒正人(あら・まさひと)1913~1978,文芸評論家と括られるが
、実に博学で多方面に関心が及んでいた方だ。一般に、荒正人
ってまず想像がつかない、テレビなどでも姿を見たことがない
人が圧倒的に多と思うが、偶然、1966年か67年、NHK教育で
一週間、荒正人が夏目漱石の昨日を一つづつ解題、解説してい
く、という番組が放送された。その時の印象が非常に強い、淡
々と漱石の作品を枯れた味で述べてゆくそのスタンスというか、
人間性に惹かれたものだ。当時は53歳前後だったはず。漱石の
作品を実に見抜いているなと教えられたし、感心もした。また
そのしばらく後、文藝春秋のグラビア「娘と私」に載っていた
。娘さんのコメントも載っていたのも記憶にある。
で、その荒正人さん、実に多方面に博識で宇宙論的な分野ま
である、と思う。で1955年に青木書店から刊行された『市民文
学論』、その異常な博識が根底にあると思うが、それは論述の
これまた異常なセッカチさに通じている。この二つの要素は実
は一体のものと考えるしかない。
『市民文学論』というから伝統的な、地味なテーマが掲げら
れている、と思いきや「人類の意思」、「人類意識」、「職業
としての文学」、「市民文学の推移」というような評論。やや
イメージからすると異質かも知れないテーマだ。でも「人類の
意志」とか「人類意識」というだいそれたテーマについて荒正
人はどう考えているのか?抽象論では仕方がないので、例えば
志賀直哉『暗夜行路』からの抜き書きだ。
「人類が滅亡するということをわれわれは知っている。がそ
れが、われわれの生活を少しも絶望的にしない。この事実はむ
しろ不思議だ。われわれは地球の運命に殉死するものではない、
という希望をどこかに持っているからではないのか」
このような引用された一節の文章をもとに展開してゆく。
「志賀直哉が人類の滅亡を意識し、それを克服しようと、
文学的に努めたりしていることはいくらか意外である。だが
『暗夜行路』以後の、いや以外の系列については、人類は無
関係である。人類の手前にいる人間か、さもなければ人類を
超えてしまった自然が登場してくる」そして荒正人さんの意
識は先へ先へとどんどん発展していくのだ。
だが、この引用された一節の中で、志賀直哉が本当に荒さん
の云う「人類」を意識していたのかどうか。「人類」を「人間」
と変えても同じような意味合いになりそうだ。ここらが、せっか
ち、というのか話の展開がやや大風呂敷になりがちなのだ。
武者小路実篤ノ『人類の意志について』という評論を引用し、
「人類」についての考え方は武者小路が「大正時代の一番高い
峰であった」といっている。だがこの場合の「人類」も単に「
人間」としてもじつは同じなのではないか、・・・まそれは、
つまらぬ詮索だが。
でもこれだけの展開をしながら、結論として書かれているの
は「人類の意志を信じないでは、現代の階級も民族も、いずれ
もその充実した自己形成は困難であろう」とか「人類意識は文
学者の試金石となるであろう」これで納得できる人は心温かい
人だとは思うが、よくわからない。
またさらにギリシャ神話やアイスランド神話、英独仏の文学
や評論、それから科学史まで引用し、展開している。
「職業としての文学」では、文学の作品と原価計算を延々と
論じている。でもどうにもしっくりしない。ちょっと的外れに
思える。そのためにギリシャのヘロンや、マックス・ウェーバー
まで持ち出すのもどうかと思うが。結論で
「文学を職業と思う人間はもっと職業らしく振る舞え。それ
に満足しきれない人間は、覚悟を密かに決めるべきだ」
これは結論というより、議論のスタートとしたほうがいい気
がするが。
また「アメリカの大学はすべて民間の事業」とか、教科書の
執筆には学校の教師が手を出すべきではない、「欧米ではそう
なっている」、
で本来の市民文学についてだが、イギリスの市民文学はデフォ
ーに始まって、日本は二葉亭四迷の『浮雲』に始まる。だが『
浮雲』は近代文学だが、市民文学ではないという矛盾がある、と
いう。近代文学が市民文学として発展しなかったことが日本文学
の基本的性格をなす、というのだ。それをイギリス社会史から説
明もどうも釈然としない。
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