岸田国士『善魔』1951,映画化され、登場人物名がそのまま俳優名(三国連太郎)に
岸田國士、1890~1954、言うまでもなく日本近代演劇の父
である。岩田豊雄、久保田万太郎らとともに文学座を創設した。
この作品、小説だが1951年の発表。「悪魔」でなく「善魔」と
はまた奇妙なタイトルだが、正義と真実を追求するはずの新聞
記者が、善を貫くため魔の心を必要とすることの矛盾に苦悩す
る、そのさまを描いた小説。木下恵介監督で映画化、これで
デビューの三国連太郎は登場人物名をそのまま芸名としたので
ある。、この作品自体のwikiまであるのだから、やや意外であ
る。そのわりには作品自体は知られていない。映画化前提の小
説であったのかもしれない。
登場人物の伊都子、三香子の姉妹の父親の鳥羽了遠の考えは
こうだろう、
「悪」に対する「善」と云うものはあっても、人間の善性は
もともと自分を守ることに精一杯であり、決して進んで「悪」
に戦いを挑んだり、その喉元を絞めるようなことはしない。そ
れゆえ、道徳的にこの社会を幾分でも救うには、人間の神性と
善性にさらに新しい性格を与えねばならない。例えば、勇気と
か、意志とかそのような別の力を借りないで済む、いわば「悪」
がその本来の姿の中に持っているようなしぶとさ、狡猾さ、闘
志、苛酷さを必要とする。これを魔性と云うなら、その魔性こ
そが、「善」そのものを、「悪」のちからと対抗させるもので
あり、そういう性格を備えた「善」を「魔性の善」といいたい。
この鳥羽了遠の考えを了遠の山中のボロ家で聞いたのが、若
い新聞記者の三国連太郎である。彼は伊都子が役人である夫の
北浦剛から逃げ出した家出事件を取材のため、彼女の父親を訪
ね、そこで三香子に逢って恋愛に陥る。北浦剛は用心を重ねな
がら、私欲を満たしていく険悪な、陰性なタイプである。三国
は当然に北浦を敵に回すことになるが、三国の勤務の新聞社の
先輩の中沼茂生は若い頃、伊都子に心を寄せていたのである。
中沼と三国の思いやりで、北浦対伊都子の事件はその新聞では
極めて同情的に扱われた。
突然に三香子が発病する。急性の肺結核だろう。もはや手遅
れであり、命旦夕に迫る。三国は瀕死の三香子と結婚する決意
を示し、許される。中沼を連れて中沼を連れて山の小屋に駆け
つける。その時は、もう三香子は息を引き取っていた。もう、
今はなき,三香子の遺体に接する三国の思慕の情は、多少の
鬼気さえ帯びてくる。
中沼は久しぶりに伊都子に会うのだが、彼には不運な女優の
小藤鈴江なる愛人がいた。中沼と伊都子の愛情を知った鈴江は
黙って中沼のもとを去り、どん底に沈む。この関係に三国連太
郎代わりこんでくる。三国は鈴江を助けようとする一方で、伊
都子を手離したくない北浦と戦い、離婚を承知させる。中沼と
伊都子は結ばれそうなものだが、三国はそれも許さない。中沼
と伊都子はそのまま別れようとする、ところで終わるのだ。
あくまで映画を意識しての作品だと思うが、文学としては、
ちょっと、深さが欠けているというのか、ただの通俗的な小説
としか思えない。もっと読者の文学的感性を信じてほしいとい
うのか、・・・・・そんな印象を受けてしまう。
この記事へのコメント