市田弥栄さんの半生(第一部)、『鴨東綺談』谷崎潤一郎の主人公、疋田奈々子のモデル
昨日だったか、昭和31年、1956年において「週刊新潮」の
創刊記念的に連載開始したかのような谷崎潤一郎の『鴨東綺談
』おうとうきだん、それが京都の名流夫人の淫乱をそのままに
描いたと京都でも評判になり、モデルと思われる当の市田弥栄
さんらが作者の谷崎にねじ込み、結果は6回で中止に追い込ま
れた事情は前回に述べたとおりである。で今や国の重文の対鶴
山荘に居住だったその市田弥栄さんとは?
週刊新潮の『鴨東綺談』の主人公、疋田奈々子の挿絵
実父は市田株式会社の創立者、市田弥一郎で母は祇園のお茶屋
で左褄をとる芸者であった。市田弥一郎夫妻に子供が出来ず、世
継技のいなくなるのを憂えた結果、周囲の者がその世継ぎ目的で
選んだ健康な、何よりも健康で特段に美醜は問わず選んだ芸者と
いうのが弥栄さんの母親なのである。
そこで芸者に別宅を与え、市田家の血、男の血が守られればい
いと考えたようで、世継ぎ出産用の芸者をそこに住まわせ、女の
番人も置いていたという。何とも、封建の都らしい話ではある。
これも諸説があるようで、その芸者には親しい大学生もいたと
かいうが、ある縁石で弥一郎と結ばれ、まもなく弥栄さんを産ん
だという。いずれにせよ、正妻との間に子供がいなかったので、
弥栄を実子として引取り、市田家に入籍させた。
だが、住友財閥宗家、鴻池財閥本家などの続き、個人資産家と
しては関西の長者番付の第六位を占めていた市田家の長女に収ま
った弥栄は可憐な白菊のような存在であったという。
弥栄には乳母がつきっきりで、邸宅には三太夫が一人、男衆が
二人、女中が五人いて「ひいさま」と呼ばれていた。幼少時代に
は財布など手にしたこともなかったという。
弥栄と遠縁に当たるという藤川延子はこう述べている。
「彼女とは小学校から京都府立第一高女で私が二、三年後輩でし
た。その頃の弥栄さんは人力車で女中をお供に通学するなど、文字
通り深窓育ちのお嬢様でした。府立第一高女は大谷智子裏方をはじ
め、京都の宮さま方もご入学になっており、非常に厳格な校風で着
物も木綿以外は許さないというほどでした。
戦時中はモンペ姿を強要されていたのに、弥栄さんは派手な着物
を着ていたと記憶しています。私たちにお近づきになられたのは終
戦後も最近になってからです。
谷崎先生の小説を読んで私はすぐに『あ、弥栄さんがモデルだ』
とわかりました。あの方の私生活での行いのことは、ともかくとし
て、何と申しましょうか。恋から恋に生きる平安時代の女性の再来
と思いますよ。でも一面、素朴なまでの母性愛の主で谷崎先生に抗
議を申し込まれたのも、四人の子供の将来を思ってのことではと」
弥栄がみずからが正妻との子供ではない、宿命的な生い立ちにつ
いて長く知ることはなかったが、それを知ったのは府立高女一年の
ときであった。ショックを受けつつも「強く生きよう」と自らに言
いきかせる弥栄だったが、同校を卒業し、まもなく、いとこの弥吉
郎と結婚した。その後の市田株式会社の監査役である。婿養子であ
る。そうしたら新婚旅行先に新郎がダンサーを連れてきていて、
それが弥栄への大きな怒りを産んだ。新婚生活も一年足らずで清算
した。
失意の弥栄の前に現れたのが、円山応挙の七代目子孫という画家
の国井謙太郎(51)だった。『鴨東綺談』中で国医という男のモデル
だという。弥栄は家を飛び出して国井画伯と結ばれたことで、その
後、戸籍も遺産相続もややこしいことになったという。
その国井謙太郎画伯は
「弥栄に心を惹かれたのは事実ですが、何と言っても人の妻が私
のところに綿々たる恋文を連日のように送ってくるんですから、こ
ちらも当惑しましたよ。もうそれが長持ち一杯です」
だがいたって主体性もない個性も感じにくい国井画伯にはやはり
不満がつのったようで、再婚後の模様は
国井画伯は
「昭和13年に須田国太郎画伯の媒酌で私たちは結婚しましたが、そ
れから11年間、平和な家庭でした。だが京大生の孫徳輝がうちに下宿
してからが波乱で。京大地震研究室の佐々憲三博士が京都大地震を予
言したのをチャンスに、孫は弥栄と私と四人の娘をそそのかし、別府
につれてゆき、弥栄と四人の子供を私から奪ったんです。その後も女
中に手を出したり、女癖も悪く、水商売の女と結婚しても弥栄から金
をせびりとったり、あの小説で一番迷惑を受けたのは私ですよ。谷崎
先生より、孫を恨みます。あいつこそ悪玉です。四人の子供は私を慕
っていますから最善は私が弥栄と又結婚することでしょう」
国井画伯が憎いという孫は作品中では中国人の薫だという。
孫はその後、弥栄と東京の吉祥寺に住居を構えたが、孫はまもなく
ある芸能人女性と結ばれ、怒った弥栄は孫を殴ったという。
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