尾崎士郎『厭世立志伝』1957,『人生劇場』を書き始めるまでの半自叙伝
吉良の三傑といえば、吉良上野介、吉良の仁吉、尾崎士郎
の三名である。『人生劇場』である。だが『人生劇場」が大
当たりするまでの尾崎士郎は、実は紆余曲折の苦難である。
半自叙伝だが、小説であり、実名ではない。
足助(あすけ)一次郎は、一右衛門とお由夫婦の三男として、
岡崎市に近い吉良村に生まれた。祖父の長右衛門は村の侠客
で、賭場の旦那衆でもあった。煙草の製造業を御上に返上し
てからは、足助一族は山林と土地だけの収益で暮らしていた。
だが一右衛門が土地の売買や繭の仲買で失敗し、吉良村に新
設の郵便局の局長になった。これは明治32年、1899年、一
次郎が五歳になったばかりの頃であった。
一次郎の幼年時代の記憶はごくごく、とぎれとぎれで、影
のような物の形やおぼろげな人の声が残っているだけである。
印象に残ってるのは乳母代わりの女を抱きに来る男とか、裸
の祖母の姿、弟の誕生と死、父が煙管で母を殴ったときの音、
などである。
就学前に百人一首を暗記し、新聞も読めて神童の噂さえた
っていた。日露戦争の景気に浮かれて失敗した父の借金の交
換条件で横浜で医院を開業していた母の兄の家に養子にやら
れたが、それもホームシックなどで長く続かず、実家に戻さ
れ、帰ったらえらく老いている父親を見た。家計の苦しさも
なにか分かった。・・・・・小学校生活はどうということも
なく過ぎ去り、岡崎中学に入学した。
父の病気、叔父の発狂と死、父の死、家庭の変化が結構激し
く、徐々に成長の一次郎も心中は穏やかではない。せかせかし
た焦燥感に駆られ、中学時代も過ぎた。上京し、早稲田入学、
翌年、父の後継で郵便局長となっていた兄が自殺、それは官費
横領的な罪で家財道具は執達吏に封印された。吉良村の豪族で
あった足助家は十数代続き、没落した。
再度、上京し、苦学生となった一次郎は懸賞短編小説に入選、
それが機縁で改造社の山本晴彦から長編の依頼が入る。その
小説の原稿料を持って単身中華に渡り、上海で放浪文化人の
グループに入って生活した。
上海から帰国後、一次郎は彼と共に新聞懸賞小説に当選した
女流作家、藤枝三江と出会い、美江は北海道の夫を棄てて彼と
同棲する。だが6年間に及ぶ美江との生活も行き詰まる。
美エは「もう一度、あたらしく、やり直そうじゃないの。
お互いの愛情を、こんな生活ですり減らすなんて惜しいじゃ
ない。ふたりとも、愛し合うことに退屈なんて、もったいな
いじゃないの」と言って次の朝、原稿用紙と着替えを持って
旅立っていった。
「粉飾と誇張したポーズを引き剥がし、生地のままの自分
をさられだそうとして書いた」と尾崎士郎は述べている。
「魂の彷徨」と尾崎士郎はいう、確かにそうだろう。厭世
と立志伝、現実は甘くなかった、ということか。そこから必
死に這い上がる、悪戦苦闘の記録だろう。『人生劇場』ほど、
ドラマチックではないが、薄汚れた感を受けるのは現実がそ
うだったのだから、仕方がないだろう。尾崎士郎を知るため
の作品としては重要である。
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