谷崎潤一郎『幼年時代』が語らない真実の谷崎家。ブラジル移民となった妹、林伊勢の語る真実『潤一郎、精二と弟妹』
谷崎潤一郎の『幼年時代』は自己を、谷崎家を、母をよく語っ
ている好作品と評価されている。もう『幼年時代』は散々に評
論され、高い評価を得ている。それを繰り返してもさほど意味
はないと思うが、・・・・・。谷崎の描く『幼年時代』は自ら
の文学を構築するための虚構めいている、
『幼年時代』においてこう書き始めている。
「いつか私は自分の生い立ちの物語を、最も古い記憶から順を
追うてで見るだけ詳細に綴ってみたいと云う念願を、随分前から
抱いていた」と「はしがき」にある。潤一郎の四歳ころから高等
小学校を出るころまでの思い出が綴らてている。
『幼年時代』は潤一郎は小学二、三年までは贅沢に、わがままい
っぱいに育てられたという。だが父が正直だけで才覚のない人間で
あったため、養父から譲られた財産を食いつぶし、家運は傾くのみ
で潤一郎が高等科を終える頃には、中学に進学すらおぼつかなくな
る。潤一郎はそのような家庭の事情を随所に述べながら、幼少時代
の様々な思い出、例えば生家のあった蛎殻町や浜町のかわいた下町
の空気や、小学校と幼友達、竹馬の友の中華料理店の偕楽園主との
交遊や恩師のこと、母や叔父に連れられて、たびたび見た芝居の追
憶、「悲しかったこと、嬉しかったこと」、次第に文学熱に目覚め
てゆく経過など、懐旧の情を込めて物語っている。特に歌舞伎や、
縁日の神楽と茶番の思い出は詳細である。その芸術的早熟に読者は
さぞや驚嘆するだろう。
「演劇に限らず、音楽でも絵画でも、出来れば、少年の時になる
べく第一級品の芸術を見せてもらうべきである。少年の理解を越え
ていても、一流のものなら、何らかの形で心の奥にその跡をとどめ、
他日その感銘が蘇ってくるはず・・・・」
潤一郎の母は「近所界隈で美人の評判が高かった」
「顔ばかりでなく大腿部の辺の肌が素晴らしく白くキメが細かく
・・・・・、一緒に風呂に這入ってハッとして見直した」
潤一郎の女性崇拝、美食好き、貧乏嫌いなどが幼少時代から見え
ていると思わしめるが、・・・・・・
だがしかし、これを妹から云えば、10歳年下の妹が見ればどうな
るのかだ。潤一郎、精二という長男、次男はいいが、ではその下だ。
三男は和歌山の旅館の下足番、妹は子供時代、遠縁の農家に養子に
出され、結婚下が離婚、再婚後、ブラジルに移住した。
妹の林伊勢の『潤一郎、精二とその弟妹』より
「長兄と私は、年齢が十以上も違っている上に、子供の時、私は
叔父の家に養女に出されていたので、若い頃の長兄について、あま
り知るところはない。・・・・・・私がこのような文章を書くのも、
幸福で満たされていたとは到底いえない私たちのことを書くことで、
まずほとんどの人に知られていない長兄や次兄の一面を知っていた
だきたいと思うからである。ありのままに書こうとすれば伏せてお
きたいようなことばかりで、・・・・・自分を鞭打つ思いでこの文
章を書き継いているわけである」
「私たち兄妹ほど変わった運命にもてあそばれた兄妹はいないで
あろう。七人兄妹で三人まで他家に養子養女にやられた。その三人
がみな不遇に転落した。それが単に母に乳が出なかったということ
、家運が傾いたことによるというが、そうかもしれないが、世の中
で乳が出ない、家運が傾いたなどという話は実に多いし、私たちよ
るずっと貧しい人も多かった。だが子供を手放す人はどめったにい
ない。そうだから私の母は母としてまことに意気地なしといっても
仕方ないと思う。母は全くお嬢様育ちで,御飯も満足に炊けなかった。
最後の浮世絵師がその似顔絵を描いたと云うほどの美人だったとい
われるが、貧乏のどん底でも女中を一人減らすこともなかった。だ
が子供は手放したのだ」
右端が二女の伊勢、左端が末娘
本来なら親が手放すべきでない弟妹を三人も手放し、その後の
それらの子供は不幸の道を歩いた。林伊勢さんは再婚となり、その
相手がブラジル移住、ともに移住し、長くブラジルに暮らし、そこ
に骨を埋めたのである。農民としてでなかったから、移民と認めら
れず自由渡航者扱い、辛酸を嘗め尽くされた。1899年の生まれ、次
女として谷崎家に生まれ、幼少期、養女に。1926年、昭和元年に夫
婦でブラジル渡航、移民に。ブラジルの文芸誌「ころにあ」に寄稿
の文章が田宮虎彦の目に止まり、日本の雑誌「新潮」に掲載された。
その最後近くに石川達三、ブラジル移民の作品で第一回芥川賞で
ブラジルと縁が深い。戦後、ブラジルへ。『心に残る人』という本
に林伊勢のことが、又和歌山の旅館で下足番の潤一郎の弟のことが
述べられている。サンパウロの旅館、その食堂で日本語新聞記者と
石川は囲碁を、そのときその旅館の炊事場で働いている伊勢さんを
見たとある。さすがに潤一郎の妹がブラジルの三界の宿屋で炊事婦
と最初は信じられなかったようだ。その後、石川は精二と会った際
に、精二は早稲田での石川の先生であった。
精二「君、会いましたか?」
石川「はい、ただ見かけただけです」
精二「そうか、会いましたか、どうもね、帰ってこいとは言って
ますが。女はやはり男次第だねえ」
石川の感慨「やはり本当であった。同じ親から生まれた兄弟姉妹で
も人生の幾山河を超えていくと、まるでにても似つかぬ境遇になって
しまうものだと、思い知らされた」
石川はその著書で三男を見たことを述べている。昭和32年ころ、あ
る用事で和歌山に、新和歌の浦Bという大きな旅館に宿泊のときである。
「その玄関にいた下足番は痩せていた谷崎精二先生と寸分違わない、
体つきだった、・・・・この人が潤一郎、精二先生の弟かどうかは確
証はないのだが・・・」
無論、潤一郎、精二の弟が下足番をやっていたのだ。三男は下総の
Kという大きな薬屋に養子に出された。だが養母を亡くした養父が自暴
自棄になり、酒に溺れ、家運が傾き、養父も路頭に迷った。三男は浅草
の店に奉公に出された、・・・・・。
この現実を、潤一郎『幼年時代』と比べてみるべきである。語られぬ
真実が大きすぎる。
1961年8月、熱海で、潤一郎と伊勢
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