森 類『鴎外の子供たち』1956、率直に森一家の内情を描く。
申すまでもなく鴎外の子供は5人、次男の不律は早世。だか
ら長男の森於菟、長女の森茉莉、次女の森杏奴、三男の森類で
ある。長男は医学者となり、型通りの硬い人生。後の三人は相
対的にやや奔放であった。個性的なのは三人である。その三男
の森類は特に総傾向がある。次女の小堀杏奴と三男、森類は内
幕をかなり容赦なく文章に残した。
森類1911~1991の1956年、森鴎外の三男、末子の森類は子供
の頃から気が弱く、しかも学校嫌いで何とか入った旧制中学も
二年で退学してしまう。以後、学歴がない。勧められ、絵画、油
絵を学び、それも要は父の遺産による「不安のない生活に安住し
ているところから」発したものので、結局、絵画はものにならず、
戦後はいやでも自活せねばならなくなった。「四十を越えてはじ
めて外気にあたった」という。人生の再出発をこの本の出版をき
かっけにやりたい、というのだ。
父の鴎外は類が11歳のとき亡くなり、あまり語られていない。
鴎外の人間性はとかく批判もされているが、子供たちには甘く、
優しかったようだ。子供は先妻の子で長男の於菟は医学の道を選
び、硬い人生で類より21歳も年上、やや異質と云うか、別格の存
在だろう。後妻の子である志げ、は茉莉、杏奴、不律、類を産ん
だ。で母(志げ)が家に来てから長男の於菟は一人孤立的であり、
それは母が「兄をきらったからということになるが、どうも父は
それ以前から兄には関心を持たなくなっていたのではあるまいか」
という。
類は母よりもむしろ「父の微笑を求めて間断なく追いすがるよ
うな気持ち」で、いつも父の姿を探していたという。父が毎日、
小学校に送っていき、夜中はトイレに連れて行ってくれた。成績が
悪いのは「あんまりお父様が可愛がるからではないでうしょうか」
と担任が云うと、「類が出来ないのは、類が怠けるからで、おれが
可愛がるからではない。小学校教師に何が分かるか」と激怒したと
いう。
母は伝えられる通り美人だったが鴎外と産んだ子供たち以外、誰
も好感をもたなかったという。鴎外の死の間際、「パパ、死んでは
いやです」と嘆き悲しむと、静かに死なせてあげたらいいのにと、
皆から非難されたという。一族から排斥されていた母はとにかく鴎
外が頼りであり、縋るような気持ちになるのは当然ではないかと類
は云う。
三人の子供を連れて芝居を見に行くときなどは、母の財布には、
小さく畳んだ懐紙に、茉莉の金、杏奴の金、類の金と墨で書いてい
たものを入れていた。その金は、各自の名義の通帳から引き出され
たものであった。相当な贅沢な暮らしだったが、金については妙に
きちんとしていたという。
だが茉莉は家のことには無能で二度も離婚されて帰って来るし、男
の子の類がダメならと、踊りを仕込もうとした茉莉は病弱だった。三
人の子供は、母の敵対者には、ともかく一致団結していたが、母の死
後はバラバラになったという。
類jはこの頃、書店を経営していた。その後、文学作品を執筆し始め
、最晩年にエッセイストクラブ賞だったかを受賞した。
なお、類の勉学の不振に母が落胆していたとあるが、この記述が原因
なのかどうか、杏奴から絶好を宣言され、生涯和解しなかったという。
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