井上靖『川の話』1955,川が人生に似ているのか、人生が川に似ているのか・・・・・?


 初期の旺文社文庫は最後に既刊の紹介があり、『井上靖・
あすなろ物語』では「あすなろの樹になろうというモチー
フ、・・・なお好短編「川の話」も併録する』という紹介
の文章だったと思う。実は旺文社文庫の『あすなろ物語』に
併録されているというで著名、というとやや大げさだが、確
かに旺文社文庫『あすなろ物語』と密接に語られる短編では
ある。

 人それぞれ川については思い出があると思う。基本は生ま
れ育った地の川、さらに異郷の地の大学生の頃の川、それ以
外でも川についての思い出は各人さまざまだろう。

 幼いころ、せいぜい小学二年頃まで地元の川は全く清流で
あった。その後、その清流は全く失われてしまった。清流の
頃の川は、とにかくそこで、河原で子供たちは遊べた。自然
はまだ残り、生き物の宝庫だった。だが、それもはるかに失
われている。今もこの地に長く住み、子供時代から何かと云
えば「岡山県の三大河川です」と紹介されてきた高梁川、も
う河口近くだが、何かほぼ毎日、とまではいわないが、その
川面を見ている

 さて、井上靖は川に強い関心を持ち、それを作品のモチー
フとしている。まず最初期の『猟銃』、「白い河床」はあま
理に著名だが、それ以外、あまり知られていないが『昨日と
今日の間』、『満ちて来る潮』また『崖』など。また『川の
畔』では沼津の御成橋の上で「川明りというものが、妙に寂
しいものであることを知った」、それは少年時代だが、戦後、
中国を旅し、揚子江の夕暮れに漂う「白っぽい光線」に中国
の人達の寂しさを思いやっている。この「白」は『猟銃』の
白い河床とも通じる。

 『川の話』でも韓国の洛東江や中国の珠江を取り上げ「自
然と人間の、永劫的なものと瞬時的なものとの、一種の触れ
合い」と考えるのだ。人間の生活と入り離せない川だが、そ
の流れで人間の生活の体臭は洗い流される、

 散文詩『北国』は後年の小説のモチーフとなった詩が多い。
「猟銃」という散文詩はそのままタイトルともども小説『猟
銃』に、『白い牙』の冒頭の、あの「熊笹を踏みしだく」印
象深い散文詩、また詩「瞳」。

 井上靖は旧制高校を北陸の都、金沢で過ごしたことを自分
の文学上、非常に重要なものだったと考えている。旧制四高
である。井上靖は川の表現に「淙淙」と云う形容を用いるが、
淙淙にもっともふさわしい川は青春を過ごした金沢の犀川だ
いう。

「秋は磧(かわら)に散る陽の輝きが冷たく美しくなり、冬は
いかにも雪でおおわれた白山の山肌から流れ出してくる川
らしく、水の色が青黒くなり、泡立ち一つにも厳しいものが
感じられる」し、「淙々たる流れの音が際立って美しく感じ
られる」
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 人生を川に喩えて、そこに何らかの空白を見る井上靖は、
逆に川そのものを見るときに、それはほぼ人格化してしまう。
『川の話』の語り手は、日本の川で最も好きな川はダムが出
来る以前の天竜川だという。それは、この川が小さく鋭い屈
曲の連鎖で形成され、その無数の傷跡を刻みつけられた人生
が「切ない一途なものを感じ」させるからだという。

 確かに井上文学を読めば、このキズだらけで一途なものが、
人を寄せ付けぬ無惨な顔貌の下に切ない思いを隠した『戦国
無頼』の鏡弥平太や『風林火山』の山本勘助とにも流れてい
ると、すぐに気づくだろうか。

 人生が川のようなものなのか、川が人生のようなものなのか、
それはわからないが、人間を拒否する不毛の地を行くときほど、
川の姿は「人生の愛情」を「純粋無垢の清冽さ」で蘇るという。

























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