志賀直哉の国語のフランス語への転換論。でも名詞の文法的性、人称形容詞の矛盾などフランス語は不適

ダウンロード - 2026-04-11T124527.175.jpg
 戦後、間もなくだが志賀直哉が「この敗戦を機に、国語を
フランス語に換えたらどうかと思う」、「私は日本語では、
いかに表現に不自由したことか」とそれまでの自己の文学さ
え、下手すりゃ否定と思われかない。志賀直哉自身、戦前に
パリに滞在経験がある。がフランス語に堪能だったとは思え
ない。この終戦後の志賀直哉のフランス語への国語の転換論
は一時的な敗戦のショックによる錯乱では、とも思われたが
、実はかなり後になってもその考えに変わりはない、という
内容の発言を行っている。

 日本敗戦の翌年、1946年、昭和21年の春、雑誌「改造」4月
号に掲載された志賀直哉の国語をフランス語へ転換の提言の文
章。

 40年近い自分の文筆生活の間、日本の国語が如何に不備不完
全なものか、常に痛感してきたと述べ、

 「私は六十年前、森有礼が英語を国語に採用しようとした事
を、此戦争中、度々想起した。若しそれが実現していたら、ど
うであったろうと考えた。日本文化が今よりも遥かに進んでい
たであろう事は想像できる。そして、恐らく今度のような戦争
は起っていなかったろうと思った」

 とある。

 そこで、ここからが問題だ。

 「そこで私は此際、日本は思い切って世界で一番いい言語、一
番美しい言語をとって、その儘、国語に採用してはどうかと考え
ている。それにはフランス語が最もいいのではないかと思う。・
・・・・・今ならば実現出来ない事ではない」

 今の日本語を作り替えて完全なものにするという事は、自分は
悲観的である。日本語と別れるのは寂しいことに違いないが、中
途半端な改革を行うよりは、百年後、二百年後の子孫のため、吾
々の感情を捨てて、思い切った措置を取るべき時だと思う。

 でもフランス語に堪能というわけではない。長くはないパリに
滞在経験がある。がフランス語を志賀直哉が推す理由というのは
、フランスが「文化の進んだ国であり、小説を読んでも何か日本
人と通ずる物があるとおおわれるし、フランスの詩には和歌俳句
等の境地と共通するものがあると云われているし、文人たちによ
って或る時、整理された言語だともいうし・・・・」

 これを読むと、フランス語自体がどうこうでなく、フランス語
を使うフラン人による文化、文学が優れているから、・・・とい
うのだ。ならフランス植民地の蛮人、がフランス語が広まってい
るのは普通の現象でも、ではそこで優れた文化、文学が生まれて
いるかといえば、・・・・・・違うだろう。

 ともかくも、志賀直哉の文章はすばらしい、と戦前でも書き写
す人が結構多かったその格調高い日本語で文学作品を書いてきた
志賀直哉が、神とさえ崇められた志賀直哉が「日本語ではどうに
もこうにもそれが不完全すぎて表現に不自由した」というのだか
ら、その日本語でまた考えを発表だから矛盾ではある。

 私自身、フランス語をかじって、感じるのは確かに独特なエレ
ガントな味わいがある、柔らかさがある言語だが、またこれを
国語とするなら大きな問題もある言語とも感じた。

 印欧語では普通は「名詞」に性別がある。文法的性である。た
だし英語などは文法的性を完全に脱却している。がフランス語は
、名詞なら、ありとあらゆるジャンルの名詞、全て男性か女性の
性別がある。だから抽象名詞も動植物の名称も車の部品も、固有
名詞もありとあらゆる機械製品も、・・・・・性別がある。病名
もその症状、すべて性別がある。精神病 la psychoseは女性、
蛆虫のasticotは男性、幼虫で表現するとlarve 女性、クランクシャ
ふトは男性、苦しみ peine は女性、免許取り消し annulation
は女性、・・・・・・ネイティヴなら何の苦労もない?にせよ
集合名詞もやはり性別がある。では男女混じったグループなら、
男性が一人でもイたら男性名詞に扱い。

 ・・・・・・とまあ、不合理、バカバカしいの連続だ。

 しかし、形容詞は形容される名詞の文法的性に従うから、とに
かく名詞の性は決めないと何も話せない。救助のヘリコプターが
来た!と話そうとしたフランス人がヘリコプターの性別に迷い、救
助が遅れたなんて話もあったそうだ。無論、冠詞も文法的性に従
う。

 英語では所有人称代名詞 彼の母親  His mother 当たり前だ。

 だがフランス語は人称代名詞とはいわず、人称形容詞という。
これは特徴でもある。

 よってフランス語では形容詞は名詞の性別にしたがう。彼の母で
も彼女の母でも「彼女の」の意味のsa mere となる。彼の母を表
現できないのだ。ちょっとバカげているだとう。

 古代ギリシャ語と比べると比較にならないが、フランス語は英語
より動詞の語形変化が複雑である。それが明晰に通じるとも思いに
くい。

 昭和62年1月、河盛好蔵が日本文化会議で講演した、ここで聴講の
原書房社長から志賀直哉の国語転換について質問が出た。

 河盛好蔵は

 「私はあの志賀直哉の文章で、志賀直哉『小説の神様』という
概念を捨てました」

 「あれは志賀さんも失言と思っていたんじゃないでしょうか。と
きに突拍子もないことを言う人なんですよ。フランス語に成って一
番困るのは志賀さんでしょう。あまり真面目に受け取るべきことじ
ゃないです」

 原書房社長の成瀬恭は若い頃、文学青年で志賀直哉に傾倒してい
たが、あの文章以来、志賀直哉の書くものに警戒心を抱き始めた、
という。そうしたら河盛好蔵、「あなたのように、まともに受け取
らなくていいです」と

 さりげなく志賀直哉、今は亡き文豪をかばったという

 確かに日本語は全く異質の中国語の漢字を超大量に受け入れ、音
、訓読み、同音異義語の洪水という問題を生じている。だが日本語
の本質ではなく、漢字を取り込んだ結果の問題である。・・・・・
志賀直哉のいうのも一理はある。だがフランス語国語化さはさらに
論外にひどい。

 付言すれば昭和33年、辰野隆らとの対談で国語問題を問われた志
賀は考えに変わりはないと言明したのである。

この記事へのコメント